《タモリから観る戦後にっぽん》
ある若いライターが《タモリさんから観た戦後にっぽん》という本を書いた
そうですね。誰でもそうですが、同じ歳のヒトの生き様というのは気になるもの。
私はずっとこのヒトは私と同じ歳だ・・・と思ってどういう考え方をするヒトなん
だろうと思っていました。この本の標題には
『1945年8月22日』と書いてあるそうですが、これを観てピンと来ない人は
ありますまい。タモリさんはこの日にうまれたのですね。という事はあの終戦
の一週間後に生まれたという事。戦中のどさくさに宿った子どもを産もうと
いう親御さんも凄いですが、なんという時に生まれたのか・・・と驚きます。
更にこのヒトのお爺さんは満鉄の御偉いさんでありました。
さてさて、この頃の満州に住んでいたと言えばあの終戦と同時にソ連軍が
やってきてシベリア抑留とか、命からがら日本に戻ってきたという話はたくさん
あります。ところがこのお爺さんが凄いんですね。何か危ないぞ!と考えて一年
前に福岡の高宮に帰ってきています。タモリさんは私より一年上の酉年なん
ですねえ。同じ戌年と思っていた私にはここで大きくタモリ観が変わります。
その頃の満州鉄道の御偉いさんの暮らしというのは山田洋次監督の昔話し
によれば、この頃小学生くらいだったそうですが・・レンガ造りの洋館に住み、
一日中革靴で過ごし、寝る時だけ脱ぐという洋風暮らし。料理人は中国人、
馬丁はドイツ人、家庭教師はフランス人、お手伝いさんは日本から来た良い
ところのお嬢さん・・・と超一流の暮らし振りだったそうです。おそらくタモリ
さんのお爺さんや親御さんも似たようなものだったのでしょう。
福岡の高宮という所は武田鉄矢さんによれば福岡のビバリーヒルズだそうで
この頃の福岡は収入や出自の違いで住む所がくっきり分かれていたんだそうです。
ここでも私の思い違いが分かります。赤塚不二夫さんに拾われて・・・というところ
から生活に困っていたのかなあ~なんて漠然と考えていました。しかし、その後
の彼の生き方や考え方が何か常人とは少しづつ違うなあ~と思っていましたが、
やはりかなり違う幼年時代を過ごしているのですね。
さて、その後ご両親は離婚をします。そして、タモリさんはお爺さんの所に引き
取られるのですが、このお爺さんがかなり変わった人でタモリさんに麻雀とゴルフ
を教えます。それでもこの頭の良い青年は有名な筑紫高校?を出て一浪をして
早稲田大学に入ります。そこで吉永小百合さんと同窓になるのですが、彼は
文学部哲学科、小百合さんは文学部の何科かに入るのです。
この頃ジャズ全盛時代。入ったのがモダンジャズクラブ。略して(ダンモクラブ)。
この業界人のというかグループ内の仲間意識というか、言葉を反対にして取り入れる
事は彼のお爺さんに始まります。実は『森田一義』というのはお爺さんが名付け親。
あの戦中の関東軍の暴走に一人反対して抵抗した『田中義一』は総理大臣になります
が、結局関東軍の暴走を止められず失脚します。お爺さんはこの義一の名前をひっくり
返して(かずよし・・・一義)と名付けたのだそうです。
そこにも《モリタ》《タモリ》のルーツがあるのですね。
あの4カ国人の麻雀は最近観ませんが、あの麻雀の元はお爺さん。
そして、あの頃、福岡ではラジオをひねれば韓国語、中国語がかすかながら聞こえた
のだといいますから、こういうところにも納得ができます。
タモリ・・・という人を観る時、私は同世代だなあ・・・と思って、親しみを感じていました。
でもかなりハイソな人だったのですね。この人の昭和史を考える時、あの60年安保の
時は何をしていたのだろうか・・・と考える時、単純にあの学生運動の中にはいなかった
のではないか・・・と言う風に考えるのは容易です。実際はどうだったかは知りませんが、
お爺さんが折に触れて政治の裏の人間の確執などを語ったのではないでしょうか。
そして、昭和は遠くなり、平成年間も28年目を迎えている。我々団塊の世代は少し
づつ後ずさりしながら、消えて行く。
最近、そんな事をしきりに考えています。