Acousphere Live 2016.10.11 吉祥寺Star Pine's Cafe

2016年10月11日(火曜) 吉祥寺スターパインズカフェにてスペシャルライブイベント「Acousphere with Friends」を開催します! 
Acousphere Recordに所属するアーティストが一同に集うライブをお楽しみください!
日にち:2016年10月11日(火曜)
場所:吉祥寺スターパインズカフェ 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
出演:Acousphere / Acoustic Sound Organization / Aerial / Sonascribe
時間:Open 18:00 / Start 19:00
前売り ¥3,900+1drink / 当日 ¥4,900円+1drink
詳細はこちらをご覧下さい!

2015年6月29日月曜日

ルーツ旅《那珂湊浄光寺》

ひたちなか市のサザコーヒーを訪ねる度は我ら4姉妹のルーツを

尋ねる旅だったかも・・・。

随分前にここを訪れ、母の実家のお爺さんの実家が磯崎家だという

ことを聞き、そして、この磯崎家のお墓が同じ浄光寺にあること。

そして、この磯崎家の過去帳とも言うべき墓誌を読んでびっくり。

なんと、天文5年の1740年から朧げながら分かっているのですね。

ちょっと長いけどそこから面々と続く家系の没年をたどってみます。


  天文五年  (1740年九月十三日)小児

  寛保三年  (1743年五月七日)勘三母

  寛保三年  (1743年十月十六日)勘三父

  宝暦二年  (1752年二月十三日)勘三事

  安永五年  (1776年五月十日)勘三妻

  安永五年  (1776年十一月六日)勘三事

  享和元年  (1801年五月5日)勘三母

  享和三年  (1831年十月十九日)小児

  文化十二年  (1815年十二月晦日)小児

  文政十年  (1827年十二月晦日)  小児

  天保五年  (1834年四月八日)  勘三

  天保八年  (1837年九月十七日)  小児

  弘化二年  (1845年十一月晦日)  小児

  安政七年  (1860年二月十二日)  五郎吉

  安政七年  (1860年三月十四日)  勘三事

  文久三年  (1863年八月八日)  女子力子

  慶応三年  (1867年二月六日)  妻そめ

  慶応四年  (1868年六月十五日)勘三祖母

  明治三年  (1870年十月九日)  仙太郎

  明治三年  (1870年十月二十四日)竹次郎

  明治十一年  (1878年十月二十四日)亀二郎

  明治十八年  (1885年十月十九日)勘三母ハツ

  明治十九年  (1886年九月十九日)勘三父治三郎

  明治二十三年  (1890年十月十四日)やそ五十七才

  明治三十年  (1897年六月十九日)  祖父勘十郎

  明治四十二年  (1909年八月二十日)  こう

  大正五年   (1916年十月二十八日)兼七

  大正七年  (1918年四月十四日)  欣三

  大正八年  (1919年十二月二十五日)  かね

  昭和十三年  (1938年旧三月九日)  よて八十七才

  昭和十七年  (1942年旧七月六日)  勘三七十二才

  昭和三十五年  (1960年五月二十六日)たま六十才

  昭和三十六年  (1961年五月十六日)  貞子八十三才  

  昭和四十四年  (1969年十二月十一日)  勘三七十五才


と1969年で終わっています。

勘三という名前が続いているという事は代々継がれてきた名前なんでしょうね。

勘三の後の(事)というのは名前が分かっていないのか・・・。

明治になって初めて、やそさんの没年の歳が記されます。

一介の網元が財を成したとは言え、墓誌を残そうと思って作ったというのは

奇跡ですね。そして、代々これを残してきたというのも奇跡。

この網元の末裔は平磯の海岸べりにある坂に沿ってあった屋敷を旅館に

していましたが、今は料理屋さんのようです。姉の話によると中は階段がずっと続いて

いて面白い景色だったと言います。

今度はここを訪れたいですねえ・・・昔ここの海岸で泳いだことなども思い出しながら

この前を車で通り過ぎました。

2015年6月28日日曜日

 勝田駅前サザコーヒー

1997年の10月からお店の開店以来ずっと付き合い続けて

いるサザコーヒーに久しぶりに行ってきました。

いつもは車で行くのですが、どういう訳か電車で・・・。

そして、朝からなんだかやる事なす事全部うまくいかず、

スマホで電車の乗り換えをキッチリ調べたのにも拘わらず、

本当に、本当に、信じられない程の時間をかけて、朝8時に

家をでたのにも拘わらず、なんと、勝田駅に着いたのが、12時。


さて、上の姉たちと待ち合わせの時間に大幅に遅れて一時間も

待たせ、12時20分にサザコーヒー。

丁度お昼時、店内も混んでいて一番奥まった所の庭が見渡せる

ところで姉妹全員ランチを頼んでゆっくり一時間半のおしゃべり。

最近買ったバッグはこれ・・・なんて話をしながら、食後のコーヒー

を楽しみました。

帰りにお店の入り口にあるお土産コーナーで姉たちはコーヒー豆

やらを買い、私は素敵なコーヒーカップに惹付けられて、ついつい

買ってしまった。

いやあ、素敵なのよ。


それから、4人姉妹の母の実家那珂湊にあるお墓にお線香を

上げに行きました。

小学校の頃、夏休みになるといつも訪れるここの景色。

『あの時の事覚えてる?』

ほら、裏の木戸から出るとずっと続いている坂道を水着姿で浮き輪を

持って、ずっと下りて行くと海岸だった・・・。

ほら、おばあちゃんがいつもかき氷を大量に頼んでくれて美味しかった

ねえ・・・。

母の実家平磯から那珂湊まで海岸をテクテク歩いたねえ・・・。

お二階にあるオルガンを日がな一日弾いていたねえ・・・。

お爺さんの新聞読みがお経みたいで面白かったねえ・・・。

それから、それから、4人姉妹の想い出話は尽きない。

でもみんな既になく、時の流れに流されてしまっている。

津波の後のように。

お線香を上げながら、母の祖母の顔、しかも丸髷?を綺麗に結って

お葬式に使ったあの写真の顔を思い出し、あの家の階段ダンスを

思い出していました。


で、帰りは水戸から特急で上野、東京、品川しか止まらないという

電車でなんと一時間16分。

朝は常磐線を全部総なめするように、ぜ~んぶ各駅停車で堪能し、

帰りは特急券を買ったにも拘わらず、席がなく、ずっと立ちっぱなし

というフルコースの一日でしたね、なぜか・・・。

ははは。

案の定、小学生のように疲れすぎて晩ご飯も食べずに寝てしまいました。

こういうのを良い一日というのかなあ~。


2015年6月27日土曜日

佐々淳行『私の前を通り過ぎた政治家』

《政治家とは権力欲ではなく権力意思を持った人物でないといけない。

その信念を、私は祖父(友房)と父(弘雄)とその天下同憂の志から

学んだ・・・・・・。》


佐々さんはその著書の冒頭からこのように言っています。

時々、雑誌やテレビでお顔を拝見することがありました。

私はその顔のなんと爽やかな、涼やかな印象に感銘をうけていました。

多くの政治に携わる人たちの顔立ちや、立ち居振る舞いには少なからず

我々は失望していますよね。

でも、私にはこの人は破格の人だ思えました。

民主主義の中での政治は多数決にする為にどんなに汚いこともするのだ

と単純に思っていたし、権力を悪用する政治家のなんと多い事と報道される

度にがっかりしていましたから・・・。

私は何も知らなかったのだと反省しました。

まっ、政治に興味のない一主婦としては当然ですけど。

やはり、テレビだけとか、新聞一誌だけでは何も分かっていなかったのだと

思います。

ここには、佐々さんが政治家として素晴らしいと褒めてらっしゃる方と、全く

どうにもならない化け物とが歯に衣着せぬタッチで書かれています。


で、その中でも東京に住む私に一番関係のある石原さんのことに感心が

向きました.。

石原慎太郎さんは環境庁長官や運輸大臣を歴任した後、1999年に都知事に

なって、足掛け14年国政にも大きな影響を及ぼす方向線上で大きな足跡を

残しています。

首都移転に明確に反対を打ち出した。

ディーゼル車排ガス規制で黒煙を吐く大型車を一掃した。

東京都区部の一番外側を走る環状八号線を女傑扇千景と組んで地下を掘り、

地下トンネルでつないだりして、都民の生活環境をよくした。


これには私など多いに感謝している。環状八号線のすぐ近くで生活している私などは

長年の咳と花粉症に悩まされていましたから。


そして、長年の問題であった新宿歌舞伎町浄化作戦を警視庁機動隊を使って断行

したのも石原さんだそうです。

そして、そして、一番大きいのが横田基地の米軍航空管制を取り戻したこと。

この事で羽田の国際線が活発になったのですよね。

花粉症退治のために杉を切って別の樹木を植樹するといった施策も実行している。

東京都の安全、安心を考えて、《空き交番》の問題を解決したのもこの人。

尖閣諸島の購入を東京都がいいだしたことで、日本人に海防の必要性を認識させたのも

この人ですね。

そして、ちょうど9・11の時に石原氏と佐々さんはニューヨークにいました。その時の危機管理

のあり方を観て、石原氏は

《首都圏3300万人を守る『首都圏FEMA』》をつくるのだそうです。

今テレビなどで拝見する石原さんは長年の職務からか、随分歳をとられましたね。

ありがとうございましたと感謝を述べたいです。

そして、佐々さんもこの本の帯に最後の手記と書いておられます。

残念です。

でも、佐々さんが書いておられるように後に続く若い政治家が立派に成し遂げるだろうと

今の宰相安倍晋三氏や石破茂氏や小泉進次郎氏や長島昭久氏などを挙げています。

政治家たちが日本の舵を取って少しでも良い国にして行く努力に協力しなければ

いけませんね。


2015年6月20日土曜日

友井羊の《スープ屋しずくの謎解き朝ご飯》

表紙の絵に惹かれて思わず手に取ってしまった本。

文字通り、しっかりした朝ご飯を必要としている人に朝ご飯を提供

するお店なんだけど、それには訳がある。

そして、その朝ご飯の記述がうまそうなんですよね。

巻末の主要参考文献には

『辰巳芳子のスープのてほどき』

『スープ大全、フランス料理の出発点、歴史ある技術と新しい味を

一冊で』

『毎日役立つ、身体にやさしい、薬膳、漢方の食材帳』

など他にも4~5冊の本があげられていて、しっかり取材している

のが分かります。

私は冷蔵庫にいろいろな野菜が少しづつ貯まってくるとスープを

作るのですが、そうではなくきちんとスープを作るんだという意識で

作らなければ美味しいものはできませんね。

この本の50ページにはポトフが出てきます。

牛肉で作った物がポトフ、豚肉で作った物がポテと言うらしく、

そう区別されて紹介されています。

大きめに切ったキャベツ、人参、ジャガイモ、セロリなどの野菜が

透き通ったスープで煮込まれている。

さて、そこでいつも疑問に思うのが、透き通ったスープ。

私はこの透き通ったスープに成功した事がない。

無論、この透き通ったスープを目指して作ろう・・・というのもあまりない

せいか、始めはスープをゆっくり煮立たせず、あくを丁寧に取りながら

作っていたりするのだけど、ジャガイモが煮くずれるに従って、濁ってくる。

そのへんから、《まっ、いいか。》になり火を強めて味を整えるという仕儀に

なる。

アクや濁りを取る為に卵白を入れてそれに吸わせるなどのやりかたも

聞いた事があるけど、一度もやった事がない。

昔、私の義理の母はよく、コンビーフを使って、トマトスープを作ってくれた。

コンビーフを使うのに、スープがあまり濁ってないのを不思議に思っていた。

でも、とうとう、その辺のテクニックを聞かないままになってしまった。

控えめで、余り派手な事は好きな人ではなかったから、スープも煮立てる

事はしなかったのでは・・・と思う。

今、時間が出来たのだから、やってみようかなと思うのだけど、食べる人も

揃えておかないと。

2015年6月15日月曜日

成田山新勝寺と川豊の鰻

『そろそろ行きたいねえ。』

と最近やけに話題に上るのが川豊の鰻。

土用のウナギの話題はまだ早いけど、この蒸し暑さを経験すると、

食べたくもなりますね。

寒暖の差が激しくて、最近体調を崩しがち。

朝は寒いのに、昼の暑さときたら、ムシムシとしてじわっと汗をかいたりする。

で、一年一回の成田詣出。

この辺で英気を養いたい。

何度も行きながら、真言宗智山派の新勝寺には入ったことがない。

で、今回はきちんと成田山詣でをして、交通安全をお願いしようということに

なりました。ご利益主義かなあ~。


朝は8時半に出発、日曜日ですが、首都高速は空いていて、2時間くらいで

成田山着。表参道を川豊に向かって歩くと、既にウナギの良い香り。

ハーメルンの笛吹き男につられて行く子供よろしく、6名の大人とちびっ子

一人が店先でウナギを捌いているおじさんを凝視し、隣で串をさしている

二人の若造に眼をくぎづけにしていると、御二階にどうぞ!と案内されました。

御二階に案内されるのは初めて、向かいの家には祭りの山車が飾られていて、

何やら数人の小父さんたちが山車の準備かなにかをしているらしい。


やがてみんなの前にウナギが並ぶ。

一言めが《うまい!》

旨いの後はみんな黙々と食べて口もきかない。

ははははは、いやはや、うまい!

その後は、みんな三々五々、御寺参りをしました。


2015年6月13日土曜日

深大寺蕎麦とオオムラサキ

お昼に何を食べようか・・・と思案しているうちに夢はどんどん

膨らんでくる。暇人の証拠ですねえ。

そして、次第に肥満児になる・・・ではなく、この歳ですから、

成人病まっしぐらかなあ~。

なあ~んて夢想していたら、気晴らしも、程よい運動も、信心心

《シンジンゴコロ》

も満足する案を思いついた。

庭の仕事にもケリをつけたいので、お店の前はイタリア的大振りの

テラコッタに色の綺麗な常緑樹を植えるべくその両方を買うため

まず郊外のJマートで鉢と土と緑を買いに行く。

何事も消費税8%になってから高くなったなあ・・・とため息まじりで

レジで精算して、今度は深大寺へ。いつもの爺さんのお店に行って

食べたけど、ここも経営者が高齢化ですね、ザルの洗い方、乾かし

方に手が回らないようだ。ここに来るのも最後かも。


で、最後の信心心を満たすべく、お寺の境内に行ったら人だかり。

タタミ一畳ほどの広さの網で囲った飼育箱の中に柑橘系の樹が2本

植えてあって、ここに

《オオムラサキ》

が、わんさかいて、盛んに葉をムシャムシャ食べている。

二本の角をフリフリ、一心不乱に食べている様子は可愛いけど、流石に

蝶の王者ですね。顔つき、佇まいに風格があって、見方を変えれば、

怖い!

我が家のミカンの木や山椒の木に毎年やってくる黒揚羽蝶などは

黒と黄色の縞模様をフリフリしながらあっちの枝こっちの枝を這って

盛んに食ベているのを観ると、こういう幼虫が嫌いな人には申し訳

ないけど、むしろ可愛いとさえ思える。


それでいながら毎年成虫に変わる瞬間に立ち会えないのは暇人にも

もとる・・・という事ですね。

大体あの幼虫が黒揚羽蝶に変わるのかどうかも定かじゃないし・・・

ただただ若い頃のあやふやな知識だけに頼って黒揚羽蝶じゃないか

と思っているだけ。

こんなにインターネットが普及して調べようと思えば一発で調べられる

のに、やれていない。

いや、調べたら、何かの行動を誘発されるのが怖いのかも知れません。


2015年6月10日水曜日

獅子文六《大番》

獅子文六と言えば、我々60代の人間には御馴染みの作家さんではないだろうか。

先日の世田谷美術館の売り場で久しぶりにお目にかかった名前で、思わず

《懐かしい!》

と手に取ってみた。

昭和の30年代だと思う。まだまだテレビが一般的ではなく、放送する局も、番組も

NHKぐらいで今のように一日中放送されていなかった頃。

大衆小説を主に書いていて、特に《えっちゃん》という子供を話題にした本が

売れていたのか、このえっちゃんそのものがテレビ番組で放送されていて、主役が

あの日本のシャーリー・テンプルとでも言うべき松島とも子さんだったと思う。

そう・あのなんだかアフリカだかに行って、ライオンに頭を噛まれたとか、命かながら

帰った人という方が分かりやすいだろうか。

私はこの番組をよく観ていて、獅子文六という作家の名前も親しみを持って覚えて

いた。

この名前を観ただけで、あの頃の実家のテレビのある茶の間が浮かんできて

胸が熱くなって、切なかった。

早速中身など考えずに買って読んでみれば、えっちゃんなどとは全く違う男の

サクセス・ストーリー。

実はと言えば、こういう痛快なのに飢えていたからのめり込むように読んでしまった。


この本を紹介している北上次郎さん《いかにもペンネーム!!!》の持論?から言えば、

《徒手空拳の男が機知だけでのしあがっていくど根性サクセス・ストーリー》には6つ

の条件が必要であると言います。

1・主人公は貧しい少年時代を過ごすこと。

2・さらに容姿に恵まれないこと。

3・艶福家のわりに憧れの女性には何もできないこと。

4・事業に何度失敗しても挫けないこと。

5・アイディア一つでのし上がっていくこと。

6・跡継ぎをもたないこと。


伝記小説は昔からたくさんあり・・・と北上さんは書いていきます。

A級戦犯として処刑された広田弘毅を書いた『落日燃ゆ』

登山家加藤文太郎の一生を描いた新田次郎の『孤高の人』

後藤新平の生涯を描いた杉森久英の『大風呂敷』

大正期のベストセラー作家島田清次郎の生涯を描く『天才と狂人の間』

石原莞爾の生涯を描く『夕日将軍』

明石元二郎伝『錆びたサーベル』

水上勉『宇野浩二伝』

阿川浩之『山本五十六』・・・・・

まだまだ沢山紹介しているけど、どれも読んでないなあ~。


で、上の6つの条件にあてはまる作品はこの大番おいて他にないとまで言い切って

います。

そして、その他に・・・と挙げた本には御馴染みの名前が登場する。

柴田錬三郎の『図々しい奴』

花登筐の『あかんたれ』

清水一行『ふてえ奴』

清水史郎『負けるが勝ち』


このサクセスストーリーは株で一代を築いた男の物語。

それも株というものが一番面白い(のかな?)時代の戦前戦後のお話で

ほんと!かいな・・・

という儲けたり、大損したりのジェットコースター並みの面白さ。

獅子文六さんはこんな小説まで書いていたのですね。

今読んでも少しも古くないエンターテインメントでした。


2015年6月4日木曜日

セタ・ビ・カフェ

良い季節です。

こんなに緑の美しい季節に何処にも行かないなんてもったいない。

で、無目的に砧公園に行きました。

公園の一角には世田谷美術館があります。折よく

《速水御舟とその仲間たち》

という展示だったので、入ってみることにしました。

小一時間ほど日本画にのめり込んで、出てくるとお腹も程よく空いて

きました。

フランス料理のやや高めのレストランとカフェにちょっと趣を添えたランチ処があり、

その《セタ・ビ・カフェ》に入ってランチ・プレートを堪能。

いいですねえ、美しい絵画に触れて、ランチを食べて、若い者と四方山話に

興ずる・・・至福でした。


次回は砧公園を散策するのもいいかもしれません。

こんなに近くに?あるのになかなか交通の便が悪くて来られなかった所でした。

車を使うようになって、もっと頻繁に来られるようになるといいですねえ。


2015年6月1日月曜日

阿佐ヶ谷の蕎麦屋さん『大古久』

最近よく行く阿佐ヶ谷の蕎麦屋さんです。

ニシン蕎麦が有名で、看板にもにしん蕎麦なんちゃら・・・と書いてある。

でも、あの小骨の多いニシンですよね。ちょっと厄介な感じがして、まだ、

挑戦はしてません。

同じように小骨が意外なところで厄介なのが、《うなぎ》

折角、大枚をはたいて、御馳走したのに、小骨を喉に引っ掛けて、大泣き

した孫。

結局、父親が喉の奥に見つけて取り除き、一件落着だったのですが、その

後味の悪さ。でもウナギ好きなら一度や2度、喉の奥に細い骨を引っ掛ける

なんていう経験はありますね。

なるべく気をつけて・・・と思うけど、その旨さに我を忘れて・・・というのが

現実。


さて、件のニシン蕎麦。

ウイキで調べてみるとやはりね。江戸時代北海道で獲れたたくさんのニシンは

北前船から一大消費地京都に送られていました。

そして、甘露煮にされたりしました。

そして、やがて、このにしんをソバにもトッピングする・・・というのが流行り、

連綿と続いているということでしょうか。ソバとニシンが食べ合わせが良いとか、

栄養的に相乗効果があってとか、そういうことではなさそう。

つまり、その時、ニシンがたくさんあった・・・ということなのでしょうか。


北海道の江差にはニシン御殿が未だに残されていて観光の目玉になっているそう

ですが、裏日本の沿岸には司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』のような漁業によって、

一代で御殿を築きあげたという人物が多く輩出されているのですね。

そして、ニシンは食用にも、肥料にも使われたらしい。

高田屋嘉兵衛のような人物が功成り名を遂げて、ロシアに行き、日本の歴史を

華々しいものにするのでしょうね。

さて、さて、私の実家の母は茨城県の那珂湊に近い平磯の出身。

母の父親はそこの大きな網元の息子だそうですが、漁師を継がなかったのか、

実家から少し離れたところで質屋のようなことをやっていたとか。

そのお爺さんの実家は海の沿岸の坂に這うように造られた3階だての旅館を

今はやっているのだと教えられ、20年程前に行った時に一度訪問しました。

そして、歴代の墓が近くにあり、なんと江戸時代の先祖の名前も書いてあって、

今なら写メでおくるところでしょうが、その時は時間がなくてぼーっと

読んだだけでした。

そうそう、ルーツさがしですよね。

行かなくては。


さて、私はその日、大古久の『お楽しみ御膳』を堪能してきました。

野菜の天ぷらがつき、鴨の入った暖かいそばつゆでツルツルっとね。

おいしゅうございました。