Acousphere Live 2016.10.11 吉祥寺Star Pine's Cafe

2016年10月11日(火曜) 吉祥寺スターパインズカフェにてスペシャルライブイベント「Acousphere with Friends」を開催します! 
Acousphere Recordに所属するアーティストが一同に集うライブをお楽しみください!
日にち:2016年10月11日(火曜)
場所:吉祥寺スターパインズカフェ 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
出演:Acousphere / Acoustic Sound Organization / Aerial / Sonascribe
時間:Open 18:00 / Start 19:00
前売り ¥3,900+1drink / 当日 ¥4,900円+1drink
詳細はこちらをご覧下さい!

2015年7月23日木曜日

庭のイトトンボ

朝、孫の朝顔に水を遣っていたら、なにやら、細い,儚げな

トンボが一匹、葉の上に止まっている。


最近ではかなり珍しい。

ネットで調べると、『イトトンボ』らしいですね。

オニヤンマも見かけるけど、イトトンボは稀です。


この方達、肉食なんですねえ、確かに顔つきは逞しく、

怖い。水性生物や蚊を食べるらしいので、我が家の蚊

の駆除に役立っているのかも知れません。


2015年7月22日水曜日

大人のいない国

『え~、それではお開きの時間になりましたので・・・。』


私は昔からこの定型句が大嫌いで、この役を仰せつかるのを

極力避けていました。


この定型句には心がこもらない、もっと、万感こもる言葉があるのでは、

少なくとも、ある程度の歳になったら、もっと気の利いた言葉を探して

言えるのでは、と思っていた。


しかし、内田さんは映画『彼岸花』で佐分利信が結婚式でスピーチを

するシーンがあると言います。

『うたた感慨にたえぬものであります。』

この定型句の文言の中に万感がこもっている。

下手な言葉を羅列するより定型句を淡々と語り、その決まり文句に

感情を込める。


私が50代の頃は職場では年長と言われ、知識では劣るにしても、

社会の決めごとや冠婚葬祭などの時には、なんとなく御任せします

という事になり、前に出されてしまう事が多かった。

特にお葬式の時は後ろに続く若者が私と一緒に挨拶を済ませてしまおう

と、後ろからついてくる。

お葬式の文言はなるべくはっきり言わないで口の中でモゴモゴさせ、

済ませてしまおうという人が多く、前の人が何を言うのかを聞こうとしても

聞こえない。

しかし、こういう場でヒトと違う言葉で目立つのは気持ちが悪い。

で、小さい声で、

『このたびはご愁傷様でした。どうぞ、疲れがでませんように・・・。』と

後ろの若い者には聞こえるようにはっきり言う。


内田さんはこういう時、首を縦か、横にふりながら、

『なんと、申し上げたらいいか・・・』と言うそうだ。


結婚式も同じで、出来るだけ定型的な祝辞を淡々と言って、それでも行間

から万感が滲んでくるという芸をそろそろ身につけなくてはと思うんです、と

言っています。


ヒトはその時、その時で、いや大人と言う者は場所や、場合によって、演劇的

なある水準で伝えることによって、相手もそれにふさわしい応答をするように

巻き込む。恋心や人間の情念みたいなものを別の水準に一段上げてしまう。


定型や謡などからの引用である言葉はまず、

『貴方の本音とは決して、受け止めません。うたっても、聞かなかったことに

します。』という顔つきで聞ける。

だから、言いにくいこととか、本当の思いを、逆に、ものすごく形式的に伝える。

例えば、形式的な演技では土下座がある。これをされたら、相手は逆に

負けざるをえない。


『本日はお日柄もよろしく・・・』という改まった言い方に思いがこめられる。

ここに日常との水準差が現れ、大きな意味が出てくる。


内田さんは言います。

大人になるということは、この水準差を自在に変えられる事。政治を語る時も

人間関係のいろんなトラブルも、全部、次元を変えたふるまいと言葉でできる

のが大人。

だから、水準差がなくなっている今は大人のいない状態だと。

公人に求められているのは公共的なことについて、ステートメントをしているの

だけれど、そこに、さまざまな余情を託すことができ、その余情がにじみだすのは

言葉の意味のレベルじゃなくて、発声とか、ぴっちとか、姿勢とか、表情とか、

そういう身体的なところで。

言葉そのものは定型的に流れていく、でも、意味がずしりと重い。

これが本来公人に求められている言語活動である。

今の公人達の言語はほとんど中学生レベルだとも言っています。


ところで、冒頭の『この辺でお開き・・・』が何故嫌いか・・・と突き詰めて考えたら、

私は酒席が嫌いだったんですねえ。

2015年7月19日日曜日

言論の自由?

『言論の自由』とは。


内田さんは続けます。

『呪』の効力を解除するためには『言論の自由』という誤った言い回しで許しては

いけないと言います。

今の日本では言論の自由を誤解している。

あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り、口にされる

権利がある。すべての言葉はそれを聞く人、読む人がいる。


メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出される時、『その正否真偽』

を審問する場の威信を認めなければならない。

私は誰がどう思おうと言いたい事を言う。この世界に私の意見に同意する人間が

一人もいなくても私はそれによって少しも傷つかない・・・と主張する人間がいた

とする。

この人は『誰の承認も得なくても、常に正しい』というのだから、言論の自由

を求めないのでは。

言論の自由というのはまさに『他者に承認される機会を求めること』なのだから。

発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく、『自由な言論の行き交う場』

そのものである。『場の審判力』への私からの信認からしか言論の自由な往還は始

まらない。そういう場はいまの所ないのだから、これを創りださなければならない。


と内田さんは言います。

そして、この言葉が素晴らしい。

『・・・言質の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について、

高い頻度で適切な判断を下してきたという(通算成績)に担保されている。』


さて、それからなんだけど、

言葉を差し出した相手、それは誰かはわからない。

どれほど、知的で、

どれほど、論理的であるのか、

どれほど、市民的に成熟しているのか、


それが分からない。

その見知らぬ人に向かって、自分の言葉の正否真偽の査定を付託する・・・しかない。


これは絶望的に難しいのでは。


今国会の安保法案を巡っての国会議員の議論沸騰などはもう収拾がつかない。


『大人のいない国』内田樹

内田樹さんは『匿名の書き手』というタイトルでこの時代を

分析しておられます。

例えば、ノーベル賞級の科学的発見をするような人は匿名

でインターネットに自分の仮説を公表しない。

匿名者が知的所有権(嫌な言葉だが・・・)を主張しないのは

合理的に推論すれば自分が発信しているメッセージが知的に

無価値であるということを知っているからである。


しかし、数百、数千万の人々が匿名で発信し続けている。

何の利益もないことをこれほど懸命にはやらない。

だとすると『知的に無価値なこと』を書く事によっても、この匿名者

は何らかの利益をえる。


内田さんの文章は難解だと武田鉄矢さんはおっしゃるけど、この

文章に関する限り、三段論法のように進んで、私にも分かりやすい。


さて、次です。

このことによって、不特定多数の人が(そのこと)によって、利益を

えることそれ自体を喜びとしている博愛的マインドから書くという

可能性。

この人たちは私たちが考えもなく蔑ろにしているもの、侮っている

もの、ぞんざいに扱っているもののうちに、かけがえのないもの、

価値あるものを見いだし、丁寧に磨き上げて私たちに指し示すことを

主務としている。

こういう隠された価値を再認識させる言葉の働きを漢語で『祝』と

呼ぶ。


さてさて、しかしです。

ネット上に行き交っているのは、残念ながら、そのような『祝』の

言葉ではない。それは『祝』とは逆に人々が大切に思っているもの

敬慕しているもの、価値あると信じているものを『貶下』することを

めざしている。

お前達が拝んでいるものは『鰯の頭だぜ!』という『恐るべき真実の

暴露』を優れて『知的に価値ある情報』とみなし、それを不特定多数

の人々に、無償で宣布している自分の努力をみずから多としている。

このような言葉のありようを名付ける漢語は『祝』と同語源の『呪』で

ある。


『不当な利益を占有している』他者がその不当に占有しているもの

『健康、家族、財力、権勢、名誉、才能などなど』を失うことを強く

念じること。

それが『呪』である。

呪は呪詛するもの自身には直接的利益をもたらさない。

けれども、他者が何かを失い、傷つき、穢されることは、彼らの

『間接的利益』に計上される。

『呪』は呪の発信源が知られるとその効力を失う。


そして、内田さん自身がこの後、

『言論の自由とは』という本題に入ります。

やや長い枕になってしまいましたが・・・と言いつつ。


2015年7月15日水曜日

《命売ります。》三島由紀夫

巧いよねえ、実に巧い。

見事にこの帯の文言につられて買い、読み、一日夢中になって読んで

しまった。

お陰で首が痛い。

そして、でも、読後感は爽快じゃなかった。

なんせ、あのような死に方をした人だった・・・と今更ながら思い出して

いるのだから。

そして、命について何らかの事が書いてあるのだから、

警戒すべきだったのでは。

そして、あの頃の時代が色濃く残っているこの作品。

三島好みの重厚な絢爛たる、黴臭い部屋。

悪趣味とも思える鹿鳴館的、あの時代好みのこれでもかと思える、ごて

ごての装飾の調度品。

やっぱりこういう部屋が出てくるんですね。

人間の滑稽なほどの生真面目さや、醜さや、人生の無意味なことや、

肉体に対する劣等感や、などの文言が

彼の作品を読んでいる頃の自分の大学時代とともにが蘇ってくる。

私のあの若い頃の剣道体験とともに思い出された。


あの時、40数年前、同じ体育館で三島氏とともに同じ場所で昇段試験を

受けた時、遠くから彼の姿を眺め、少し興奮しながらも、意外に小さいん

だなあ~と親近感を持った事などをおもいだした。

読み終わってから、ほお~っと深いため息をついてから、そうそう

あんな事があったっけ、とおもいだしたのだ。

結婚した年の暮れに近い頃、市ヶ谷の側を車で走りぬけた。

そのあと、なんだか身辺がうるさくなり、ヘリコプターがなんだか騒音を

たてながら頭の上を飛び始めた。バリバリ、ばりばり。ば、ば、ば、・・・。


家に帰って、テレビをつけると三島さんのニュースだった。

あれから、40数年経っているのですねえ。

2015年7月13日月曜日

《家族という病》

最近読む本はどういう訳か《一人で暮らしている》・・・というのがキーワードに

なっている。

久田恵さんの《家族がいてもいなくても》や、

103歳の現役美術家篠田さんの結婚しない人生や、

下重暁子さんの《家族という病》など、

立て続けに読んで、一人になりたい・・・と憧れている。


我が家のご近所には仲のいいご夫婦がいて、私と同じ70前後の方だと

思うのだが、いつも二人で手をつないで歩いている。

これが私には信じられない。

昔、江藤淳という作家、いや評論家だったろうか、奥様が亡くなられたのに

耐えられず、後を追って、自殺してしまった。


これもご近所のお話だが、2所帯住宅の一階に住むお婆さんがちっとも

孫を可愛がらない・・・。お嫁さんが何かの折りに聞いた事によると、この夫婦は

いつ海外転勤が有るかもしれず、その時に一気に寂しくなるから、あまり情を

深くしておきたくない・・・というのだそうだ。


今回《家族という病》を読んだ。

何やら、随分売れているそうだ。本好きの友達もある時、道ばたで会って

話しこんだら、すぐ、その本の話がでた。

売れている、人気がある・・・という事は我々団塊の世代が多く読んでいるという

ことではないだろうか。みんな家族のあり方に悩んでいるのだろうと思う。


特に我々団塊の世代は家族という夢を追い続けて人生を進めてきたのでは。

結婚適齢期《これだって死語じゃないの!》になれば、結婚するのが当たり前。

結婚して、可愛い子どもを産んで幸せな家族を作る。

これが我々団塊の世代の人生の目標。

しかし、そんな夢のような家族の形態なんて、時代、世相、経済状態、女性の

生き方等々が変わるにつれて一家が同じ家に同居して、それぞれ成人して、

結婚して、子どもを産み、大家族になっていくなんて夢物語。


家族のそれぞれが大きくなり、それぞれの個性や人生観を持つようになれば、

自然に違う価値観をもつようになる。そうなれば、一緒に住むことは苦痛以外の

なにものでもないだろう。

子どもは大きくなれば自分の好きな佇まいを求める。兄弟は一番始めの競争相手

でもある。競争意識が生まれれば、相手の価値観を認めにくくなるのでは。

兄弟は余程の不幸を共有しない限り、お互いに助け合うなんてしないかも・・・。


そして、自然に離ればなれにくらすようになるのでしょうね。

《家族という病》の本はあっさり、うまくいくものではない・・・と一人暮らし、自立

した一人暮らしをすすめている。

家族関係をうまくもっていく為に努力するなんて、意味ない・・・と言っているようだ。


家族で悩んでいる人にとってはほっとするかもしれない。なんせ、はじめから

うまくいきません、と言うし、家族だからこうしなければ、とかいう縛りも常識も

始めから想定外だもの。

いやなら、辞める、嫌いなら、離れる。

すっきりしていいじゃない、と言わんばかりの勢いである。


すこしずれるけど、武田鉄矢が夫原病についてかたっている時、

『コマーシャルに出てくる夫婦が仲良く料理をしているとか、家族が和気藹々と

テーブルを囲んで笑っている・・・というのがよくありますよねえ。』と言いつつ、

ここで、鉄也さんは大きな声で

『そんな家族はないんだ!』と一喝。。

相手役のアナウンサーは大笑い。

鉄也さん、本気です。


2015年7月11日土曜日

今年も月下美人

毎年、えも言われぬ芳香を放って我々の鼻腔をくすぐる

この月下美人。

雨の中どうかな~と思っていましたけど、関係ないのですね。

夕方から開き始めて、徐々に開花していく様(さま)に、みんなそれ

ぞれに外に出て来ては花を愛でています。

さあこれから、開花ショーです。

真夜中ですから、懐中電灯を持って、ひそひそとお互いの

感想を述べながら、やがて、帰って行きます。

多分真夜中、午前2時頃が全開なのでは・・・・・。

こういうショーがこの季節に三回ほど観られるのですが、

誰も気がつかないまま終わっていたりする時があって、

よく拗ねないで咲いてくれるな、と申し訳ない想いで

ごめんね、ごめんね・・・と何度も謝ります。

次の朝には観るも哀れな力の抜けた姿になってしまいます。

美しい乳白色の大きな花びら、中にはおしべ、めしべの

柔らかい突起。

幾重にも重なる花びらが、やがてひとつひとつ独立して

後ろにそって行くと大輪になる。

芳香は強烈。

素晴らしい。

楊貴妃か、虞美人か、やはり東洋の花ですねえ。


吉祥寺多奈加亭

雨の中、吉祥寺に行ってきました。

長時間座って、本を読んでいても疲れない、そしてそのままお昼ねを

しても座骨神経にダメージを与えない・・・そんなソファが欲しい。


ありませんね、そんなの。


長時間座り続ければフクラハギが重くなってくる。

腰が、背中が、痛くなってくる。

座りやすい椅子、ソファーはすでにあちこちで考えられていると思う。

そして人によって体型や身体の質(たち)というものがあるだろうから、これがいい

と言われても"私にはちょっと・・・"という事だってある。

これはもう実際座ってみるしかないのだ。

ネットで調べれば良いかというとそんな事はない。

インターネットで観ていいなと思う椅子はあるのだけど、試しに買ってみようか

と冒険出来るほどお安くありません。

で、あのお家騒動の〇〇家具店にも行こうかと思うけど、いろいろ側(そば)で

ああだ、こうだと言われるより実際に、好き勝手に座ってみたい。

最近は一人で勝手に観させてくれるらしいですが。

てなわけで今日は雨も降っているから吉祥寺です。


そして、さんざん観て疲れたので多奈加亭へ。

ランチにサンドイッチを頂きました。

美味しい!!!!!

ここで三島由紀夫さんの《命売ります。》を2時間も読んでいたらしい。

ご迷惑だったかもねえ。


2015年7月6日月曜日

《ぼくらの民主主義なんだぜ》パート2

高橋源一郎さんは続けて言います。

『戦後民主主義は失敗である。』と。

社会契約論を書いたルソーは多数決は愚かな決め方だと言っている

そうですね。確かに我々も本当にいつも理不尽だなと思う所はこの点

ではないでしょうか。

いつでも余計に発言した人が勝つし、

声の大きい人が勝つし、

仲間だから、お友達だから、反対できないから、

ということでなんでも強い方に、利権がある方に流れて決まってしまう。

私のように一匹オオカミ、いや子羊、いや古狸には、もう集団に入るのは

辞めたいとしか思えない。世の中の大きな流れには逆らえないし、自分を

取り巻く小さな集団の中でも逆らえない、いや孤立するだけか・・・。

そして、分かってもらえるように話にいくのはもう面倒だ。

高橋さんは政治にとやかく言うのは何を言われるかも分からないから、

言わない主義だった。とにかく面倒だし・・・。

しかし、言わなければいけないだろうと一年発起したと言っています。

そして、早速発言をとらえられて非難の嵐にあったらしいですね。

全員一致でそうだ、そうだ、は難しい。


ギリシャ古代アテナイの民主主義は素晴らしい・・・と言います。

ペリクレスははこう言ったそうです。

民主主義は徹底した熟議で成り立つのが良い。

全員が参加して全員が意見を言う。みんなが考える事が大切で、結果はサイコロで

決めたっていいんだ、とさえ高橋さんは言います。

確かに結果はなんであれ、一応みんなが熟孝したあとなら、どのように事態が

流れようが、根底に良識が横たわってはいないだろうかと思います。

アテナイはペロポネソスの戦争で負けた後、民主主義が完成した。

市民の数が3万人、裁判の陪審員が6000人、この陪審員は抽選によってえらばれ

ました。将軍以外は全員抽選。選挙なんてバカらしい・・・と思っていたらしい。


今安保法制一部改正について世の中が沸騰しています。

この事は戦後70年日本人が考えないで、ここまできてしまったツケだとおっしゃいます。


日米安保条約が決まり、デモの最中に樺美智子さんが亡くなり、その事で世の中が

一気に悪意を集めて岸信介さんは退陣。そして、その後の池田勇人は所得倍増を

目指して日本を引っ張って行く。マスコミもメディアも政治も一切安保の是非を問う

ことをやめてしまう。思考停止。


日本で初めて、《子供の人権オンブズパーソン》制度を作ったのは兵庫県川西市で、

桜井さんという人はそのオンブズパーソン。桜井さんは競争社会は弱い者に負担を

強いる社会だと言い、疲れ傷ついたかれらの声に耳をかたむけ、立ち上がる手助けを

する。

『私たちの社会は子供達が引き継いでくれる。だから、大人は、子どもに失礼のない

ように思考停止をしてはいけない。』と続けます。

高橋さんは『その通りだ。この社会は、やがて、子ども達に引き継がれる。なのに、

ぼくたちの《常識》には《こどもにしつれいのないように》という言葉がないんだ。』と。


2015年7月5日日曜日

《ぼくらの民主主義なんだぜ》高橋源一郎

そぼ降る雨の中、朝日カルチャーセンター主催の講演会に行ってきました。

今晩は高橋源一郎さんの『論壇時評』の書籍化を記念しての講演です。

私はキャンセル待ちでやっと滑り込む事ができました。

人気があるのですねえ。

キャンセル待ちをお願いしてからこの本を買いに行って、間に合うかな・・・と

思いましたが、意外に楽に読めて面白かったです。

高橋さんのお話は実に興味深く、私のような素人にも分かりやすい導入で

どんどんのめり込ませて頂きました。


高橋さんは二日前に?フィリッピンからお帰りになったらしく、叔父さんたちの

戦死の地に慰霊に行った話からあの時の戦争の是非について言及し始め

ました。

そもそも御父上の葬式の後に残されたメモに書かれてあった叔父さんたちの

戦死場所や日付に気がついたところから始まります。

そして、あの頃の戦争で最も過激で、過酷だったのがフィリッピンであった事。

日本人は54万人、アメリカ人27万人、フィリッピン国民20数万人、この頃

ほとんど100万人の人がここで死んだそうです。

ここのフィリッピンでの戦いは上の考えでは、ここで戦っておれば、御国の日本

にはやってこないだろう・・・との考えがあったのではとも伝えられること。

ここでの銃撃戦は1月から5月までで、5月には日本軍には銃も食料もなくなった

とある。この後の9月全滅までは戦いなしで、日本軍は全員餓死したらしい事。

この作戦は始めから挺1号作戦と言われ、降伏も玉砕も許されなかったらしい。

事実、本国日本では8月15日に終戦になっているのに、現地ルソンでは知ら

される事がなかった。

実際小野田寛夫さんや横井正一さんは知らされずにさまよい続けたのですね。


この詳細が残っているのが靖国神社だそうで、高橋さんはここに朝日新聞の

記者と二人で調べに行ったと言っています。・・・主義に反するらしいですが。

そして、上官達は生きて帰ったそうですが。

こういうことを今考えて、もの凄く大きな間違いがあったんだと、どこかに

あったんだと高橋さんは考えます。

最初から勝つ気がなかったのかとさえ思えると。


戦争に負けたのなら、投降する。食料がなくなったら、辞めて帰る、病人が

いたら、休ませる。負けそうなら、引く。これがロジカルではないか。

日本は戦争中も非合理であり、不合理であった。東京裁判は連合軍が行い、

日本人は裁判をしないでこの事を忘れさった、言語化しないままに。

さてさて、続きます。



コミックの跋扈する街

中央線沿線の荻窪には当然の事ながらコミック漫画を生業にしている

人が多い。

以前には我がレストランにも《よしながふみ》さんらしき方がいらして、どう見ても

彼女だ・・・と思ったのだけど、ここはいかにファンと言えども邪魔をしてはならじ、

と遠くで眺めるだけだった。


娘の幼稚園には夫婦で漫画家という方のお子さんが入ったというので、こちらも

やや興奮してしまった。

バザーに行けば、そのお父さんが汗びっしょりで綿飴を作っているのに遭遇し、

微笑ましかった。


さて、今日はシトシト降る雨がやや収まる間隙をぬって、本屋巡りをして、久しぶりに

私の大好きな《マスター・キートン》の新作を見つけてルンルンで帰り道についたの

だけど、近くの喫茶店でちょっと休憩。

先日頂いたカフェオレが美味しかったので、今日もそれを頼んで早速マスター・

キートンを読みふけり、一話を終わってゆっくりお隣さんを観ると、何やら、漫画の

校正をしている様子。40後半か50前半かのご夫婦が座っており、奥様が漫画家

なのか、必死に直しているのか、付け加えているのか。

時折、ご主人?に見せては意見をもとめているのか、。

そして、左隣をみればこれ又違ったタイプの漫画を描いているお姉さん。

え、え、え~・・・。

その二組に挟まれて凡人の一般ピープルの私はマスターキートンにのめり込んで

いる。

いやはや、荻窪はこんなオバさんまで漫画好きでこういう情景も珍しくないのですねえ。