スウェーデンのキムさん手作りの
サンドイッチ。
パプリカを散らしたり、アボガドを散らしたり、カニカマを載せたり、スライスチーズをのせたり、楽しんで作ったんだろうなと思わせます。
作り方を聞いたら、"お母さんなら
もっと高く作ります。お母さんなら
もっと美味しいです。
お母さんが作ると、もっと綺麗です。"
母親は偉大ですね。
母親は偉大ですね。
高村薫さんはあまり女性を書きたがらない、とは
私の感覚でした。しかし、今回の晴子は見事に
描かれています。
高村氏は《女性の行動は男性ほど分かりやすくない。
女性の行動は複雑だ。》と言っています。
ここに登場する晴子も単純ではない。
こちらが望んだわけでもない男に好意を持っていた
とは思えぬのに、その人の子供を産んだり、
自分の子ではない子供を引き取ったり、かといって
周りを恨んだりもせず、卑屈にもならない。
淡々と生きる大正生まれの女がいる。
この晴子が息子彰之に自分の人生を綿々と綴って手紙を書く。
辛かったでもない。
周りが、時代が憎いというのもない。
後悔などは微塵もない。
だからといって、キリスト教的な神の思し召しだから
甘んじて受け入れるというのでもない。
そこに自分がいきているから、望んだ訳でもないが、
激しく拒むほどの抵抗もない。
ただ、そのままの流れがある意味生きていくことなんだと思う、
という仏教的な生き方が滲みでている。
高村氏は常日頃から、《職業によって、人間が確立する。
人というものはそういうものだ。》とおっしゃっている。
この下巻も鰊漁の様子が生き生きとえがかれていますが、
特に、一緒に働く足立という男の戦争体験や、そのことによって、
病んで崩壊していく人間模様の描写は凄まじいです。
そのことによって、あの戦争の悲惨を、忘れ勝ちな戦争を
慄然として、思い出します。
高村氏は晴子の生きる大正、昭和の時代を、晴子が預けられて
生きた福沢家という大所帯の中で暮らしている人間模様の中に
その時代を語らせています。
福沢家の当主勝一郎に焦点をあてて、戦後の日本の政界を活写
しています。
息子彰之の生きた大学紛争の時代は叔母の公子や従兄弟たちを通して、
時代を語っています。
私はこの彰之とほぼ同時代の昭和を生きて来て、大学紛争も
ちょうど終息するかの時代に生きていました。この近代史
を総まとめするように、自分の生きてきた時代を回想する。
そんな感傷も持ちつつ読んでいるうちに、ここに描かれる
彰之本人、父親の康夫、叔母の公子などが、この時代の空気
の中であがいている姿はそのままこの時代の世相を表しています。
高村氏の描く人間は実に興味深い。
のめり込むのに、ちょっと時間がかかる かも知れません。今までのように推理もの ではありませんから。 でも、日本語の本来持つべき美しさはこれ だったかと呼び覚ましてくれます。 気がつけば美しい日本語がたゆたう中で 翻弄されている。 旧仮名遣いも心地いい。 青森県の野辺地地方の方言でしばらく語られる のも何だか楽しい。 主人公彰之に宛てた母晴子の書簡には長い人生 を振り返り、その時々の母の青春が語られて います。 そして、晴子が生きてきた時代の日本の姿が なるほどこんなだったかも・・・と思わせる 市井の人々の言葉で語られて、興味深いです。 高村氏は労働の現場を描くのが実に巧い。 この作品では表紙に青木繁の“海の幸”が使わ れているとおり、漁の現場で働く人の姿が 恐ろしいほどの迫力で描写されています。 特に鰊漁での浜の賑わいと働く人の喧噪や 息づかいには圧倒されます。 本当にこの人は巧い! この部分だけでも一つの作品として成り立って います。 そして、また、のめり込んでいきます。 日本語の美しさに目覚めては如何でしょう。 |