Acousphere Live 2016.10.11 吉祥寺Star Pine's Cafe

2016年10月11日(火曜) 吉祥寺スターパインズカフェにてスペシャルライブイベント「Acousphere with Friends」を開催します! 
Acousphere Recordに所属するアーティストが一同に集うライブをお楽しみください!
日にち:2016年10月11日(火曜)
場所:吉祥寺スターパインズカフェ 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
出演:Acousphere / Acoustic Sound Organization / Aerial / Sonascribe
時間:Open 18:00 / Start 19:00
前売り ¥3,900+1drink / 当日 ¥4,900円+1drink
詳細はこちらをご覧下さい!

2015年12月7日月曜日

フビライの貨幣制度《平準庫》

龍馬が暗殺される10日程前に後藤象二郎に宛てて書いた手紙の中には日本はこれから

お金(かね)の基本は金(きん)ではなく、紙幣を持って流通せしめてはどうかと相談をもち

かけている。

   この時代オランダ、ポルトガル、イギリス、そして、アメリカなどの列強各国は

日本という国が金をたくさん持ち、これを流通させていることに旨味を感じていた。

  イギリスなどは中国をアヘンによって支配したが、日本は国土がせまく、植民地にする

旨味はない。それよりも貿易をして、金というおかねで交換すれば、その頃の世界的な

金の価値は3倍にもなったそうだから、、物を売って、金で帰ってくれば丸儲けという・・・

おいしい話になる。

  その辺の世界的事実をまだまだ、幕府も日本という国も、よく分かっていなかったらしく

そのように手玉にとられていることにくやしいですが、気が付かなかったようですね。

鎖国の弊害だったのですね。

  龍馬はおそらく、地方の豪商たちとのネットワークの中で世界を捉えていたのではないか

と司馬さんは言います。そして、紙幣で流通させることを考えていた。

  しかし、その当時でも日本は金がザクザクということではなかったようですね。

 昔、マルコポーロは東方見聞録というのを書き、東の最果てに金がたくさん或る国として

日本を書いたのですが、これをフビライが聞いています。実際に元の日本への来襲はこの

金を目当てにきたのでしょうが、まさに神風が吹いたのですね。2度の遠征も強力な兵士

たちは台風によって、あえなく撤退、または沈没してしまいました。圧倒的な兵力だ

ったそうですから、台風がなかったら、歴史は大きく変わっていたのでしょう。

  フビライはこの当時としては早過ぎる貨幣制度を採用したのだそうで、各地に《平準庫》

という国立銀行を置き、各平順庫につねに銀1万2千錠を備蓄して、たれがいつ紙幣を

もってきても兌換できるようにしたのだそうです。と司馬さんは言います。

  しかし、紙幣制度はいつでも銀を準備しておかなくてはならず、フビライはいつでも

このことに頭を悩ませていたのだそうです。まだ、ヨーロッパでは農業主義で食べ物だけで

世の中が賄えていたのにたいして、500年も早い商業主義を行ったフビライはこのことの

ためにこれを続けて行くのが、大変であったそうです。

  でも、農業を嫌い、野菜などは口にもしたくないというこの民族が考えそうなことですねえ。

  そして、そのフビライの死(1294年)により、これが終わったのだそうです。


  さて、龍馬は的確に時代を捉え、兌換制度に基礎を置く経済制度を創ろうと進言した直後に

暗殺されてしまいます。そして、この案件はまた遅れるのですね。

時代が進んで今日各個人の行動を探ろうというのか、何処で何をしたのか、何を買ったのか、

何の為に何を買ったのか、今やコンピューターで全て分かってしまう時代です。例えば、先月

群馬県で風邪薬がたくさん売れたということから、この県では風邪の患者が多かったのだ

と言う風に、これは例えばの話ですが。

  そして、マイナンバー制度になって、今度は個人レベルで分かってしまうのですね。

  先日カード会社に問い合わせてみたら、調べてくれた受付のお姉さんに言われてしまいました。

ITUNES STOREで映画をよく落としてらっしゃるんですね・・・と。

2015年12月4日金曜日

《洞が峠を決め込む》

戦国時代に石田三成が本能寺の変を起こした時、陽舜房順慶という人物が

いた。この人物は僧形の姿のまま信長の大名になり、信長の命で明智光秀と

姻戚関係を持った。

  天正10年(1582年)信長は本能寺の変で光秀に討たれた事は有名だが、

この時、秀吉は順慶に戦場に参加せよ・・・という使いを出しました。

同じく光秀も当然の事ながら、使いを出している。

順慶は大軍を率いて山崎の戦場を見下ろす岩清水八幡の山《洞が峠》まで

きたが、しかし、それ以上は動かなかった。

  眼下の戦場をみつつ、勝敗の決するまで待ち、やがて秀吉軍が勝ったと

観てからすばやく山を降り、秀吉方の織田三七の陣へ伺候して、大いに戦勝

を祝賀した。司馬さんは・・・とここまで書き、皮肉にもこの順慶は日本語の語彙

を豊かにしたとして、今日の倫理行為について《洞が峠を決め込む》という言葉が

なかったら不便だったろう・・・と、このような卑劣な行為が後々

《洞が峠を決め込む》という言葉でみんなが一度にすぐ、分かるようになったと

評価しています。

 事程左様にこの歴史の大転換の時代に有名になった徳川家康や、淀姫などは

シェイクスピアに出てくるハムレットやリア王やセルバンテスのドンキホーテのように

その個性を名前を出すだけで、みんなが狸親父やわがままで権力をほしいままに

する女性の典型や、若くして人生の岐路に立ってどっちを選ぼうかと思い悩むヒト

を思い描いたり、世の中の移り変わりに気がつかずにいつまでも古いしきたりに

倫理の基本をおいたりする愚かな生き方を揶揄する時に使われたり・・・と会話を

豊かにする方便として続いてきました。

 さて、今日それを言えばすぐ分かるという流行語があり、毎年流行語大賞が決まり

ますね。最近書道具店という地味な場所で会ったお婆さんの後ろ姿を観て、ギクリ。

《なんちゃら、阿部》と書いてあるハガキ大のカードを後ろからぶら下げている。

  阿部政権を揶揄しているものとみられますが、このお婆さん流行語大賞でぶら下げて

いるのか、本当に政権批判なのか、それもただ、ぶら下げるように言われたのか

分かりませんが、その時代に生きている我々が何らかの形で参加しているこの社会に

流行る流行語というのにも知性と品格が欲しいですねえ。

 


2015年11月28日土曜日

司馬さんの観た《蒙古塚》

 私たちが夢に描く単純で壮大な物語というのは決して

  《大儲けをして大きな家を建てて・・・》

  という使い古されて世間の垢がついた陳腐でつまらない望みではなく、

  《大草原を馬を駆って駆け巡る》という地上の王たる人間を肌で

感じるような生き様ではないだろうか。決して機械に頼るのではなく、

自分の才知で何処までも草原を走り回り、獲物を捕らえてその時の

食料だけを糧にして生きる。文化とか、文明に侵されずに・・・。

  井上靖さんの《蒼き狼》が発表され、小説や演劇で元(げん)王朝のジンギスカン

の物語に触れて、どれほど憧れたか。

井上靖さんや、平山郁夫さんや司馬遼太郎さんらが中国政府に招かれて

シルクロードを旅して歩いた後、NHKではシルクロード特集を流した。

どれだけ多くの日本人を魅了したことか。

そうそう、ナレーターが石坂浩二さんで、その声にも魅了された。

  特に司馬遼太郎さんは大阪外語大学で蒙古語を学んだというのですから、

その喜びや学問的欲求をどれほど満たされたことか・・・。後に多くの事柄を

小説やエッセイに書いておられますね。

  最近、地方に移住して自分の畑を確保して、食料は自分で・・・、という生き方に

憧れるヒトが少数でもいるという。日本という狭い国土では馬を駆って走り回り、

獣を捕えるという夢は難しいですが、せめて食べるものは自分で・・・という生き方は

良さそうだ・・・というのは言えそう。

結構かなりの数の芸能人は田舎暮らしを可能にしている。

これらの人たちは多分サラリーマンのような定収入が得られなかったから、真剣に

どう生きるかを考えた、のかな。

つまり、時給自足をすれば、お金という貨幣に縛られなくても済む。

  そうなると出世とか、沢山の貯金とかが瑣末な物に思えてくるらしい。

  

  さて、フビライ達は農業をするヒト達を軽蔑していた。野菜を見るだけで震えが

きたというのだから、今の子どもたちには嬉しい話題にちがいない。

  そして、野菜などは食べず、ひたすら羊を食べていた・・・らしい。今の我々から

考えると本当にそれで大丈夫だったのかと思うけど、定住はせず、羊が食料だった

というからそうなんでしょうね。

そして、羊一頭を完全に食べ尽す・・・それは羊という生き物に最大の感謝の念を

捧げる事なんだそうです。

  今の健康知識から考えると肉だけを食べるというのはオソロしい事ですが、この

ヒトたち、民族はそういう身体になっていたというのもそうでしょうが、羊の血液まで

飲んで、ミネラルなどの栄養素を摂取していたというのですから、一応、理に叶って

いたのでしょうね。

  この蒙古の民の平均寿命を云々するのはどうでしょうねえ。長生きが最高の幸せ

とは限らないのですから・・・。

  

  さて、さだまさしさんの大お婆さん?はかつて満州に住んでいたらしく、馬を駆って

草原を走っていたらしいですね。そして、盗賊に遭い、色々盗られてしまったらしいの

ですが、肌身離さず、大切に持っていたものだけは守ったという武勇伝が残っていた

のだそうです。確かかどうかは分かりませんが、極最近までそんな話が残っている。

  決して夢物語ではないのかもしれません。

そんな折り、上野の平成館で《大兵馬俑展》を開催しています。元帝国ではなく、それ

よりずっとずっと前の紀元前のことですけど、やはり広大なあの2大河川に挟まれた

高原を走り回ったヒト達の昔話しです。観に行かなくては。


  


2015年11月13日金曜日

公園という思想

『自然を残すというのは、"文明"が持ち始めた新しい意志である。』

 


  司馬さんはニューヨーク散歩でこう書いておられますが、まさに

そうなんだなと思わせられます。まだ息子が中学生の時に訪れた

ニューヨークには鍵のかかる公園がありました。

  街を歩いていると初老のお婆さんが鍵を開けて公園に入っていく。

タクシーの運転手に聞いたら、会員制の公園です・・・と言っていま

した。公園は公共性のあるものと思っていた私には奇異な制度だな

と思いましたし、今の若者に言ったら、平等思想で『そんなの差別だ』

と切り返されそうですが・・・。

 そして、又、《本郷界隈》では司馬さんはこんな事を書いています。

オランダ人ボードインの事情の処でこうも言っているんです。

明治政府は大学東校の建設計画書を持ってボードインに見せます。

政府は上野の山王台から鴬谷一帯にかけて病院を建て、散歩道から

下谷、浅草を見下ろせるという結構な案を提案しました。

ところが、石黒忠直が案内するうちにボードインは

景色の幽邃さに感心しました。こんな見事な都市森林を持っていながら

それをつぶすとは何事であるか、西洋では市中に森林がなければ

わざわざ造林するほどだ!・・・と言ったのだそうです。

  当時、日本には公園という言葉がなく、そういう思想もなかった。

  明治政府は早速この案を取り入れました。

  そして、替わりに、この周辺の加賀藩邸を買い上げ、今の東京大学

を創ったんだそうですね。

  オランダ人ボードインが進言しなければ今の上野公園はなかった

ということでしょうか。

  最近の我が杉並は公園が結構あります。少し多いくらいですが、この

公園の多さには理由があります。戦前からの旧華族や旧有名人の

昔の栄華を誇るお屋敷がたくさんあります。その遺族が色々な理由が

あるとは思いますが、私の浅知恵では固定資産税を払い続けていくの

が苦痛・・・という実情があるのではとも思えます。大田黒公園、与謝野

明子の縁の或る中央公園、角川家の角川幻戯公園などなど・・・。

そして、区などの行政に始末を頼むという仕儀に陥ってしまうのでは

ないか。今回もあの有名な《荻外荘(てきがいそう)》が区の公園になり

つつあります。あの近衛文麿氏のお屋敷です。戦後70年と言えば、曽孫、

玄孫の時代でしょうか。時代の移り変わりは仕方ないにしても、そういう

理由で公園になっていくというのは

 《公園が出来て嬉しい・・・》と言う前向きな感動が生まれませんね。

2015年11月9日月曜日

司馬遼太郎《ニューヨーク散歩》

ニューヨーク・マンハッタン島


 マンハッタン島を買い取ったのはオランダ人というのはよく知られて

いますが、ここをたったの60ギルダーで買い取ったのだと司馬さんが

書かれています。驚きです。

 一ギルダーはオランダ本国での石くれ一個の値段。オランダには石が

ないためスイスなどから輸入したのだそうです。その石くれは赤ちゃんの

頭ほど。その石くれ60個がマンハッタン島の値段。無論その時は現金

ではなく、60ギルダーぶんのガラス玉や酒類、雑貨類などだったそうです。

  流石に司馬さんも正確を記す為に『この事はライデン(オランダ)市役所

で確かめた。』と書いておられます。司馬さんは必ずその出典を挙げて

史実を述べていますが、こんな素人が言うような言い方で『ほんとうです。』

と言っているのは珍しいですね。読んでいる私もクスッとしてしまいました。

 さて、このオランダがアメリカ開拓を目的とした西インド会社を作ったのが

1621年。マンハッタン島を買い取ったのが、1626年。この頃の日本は徳川

家光の時代で鎖国が行われる数年前なんですって。この頃は日本人も

海外発展をしていて、播州高砂の徳兵衛という者が天竺(インド)まで行って、

貿易をしていたし、山田長政もシャム(タイ)で活躍していたそうです。

 そういう世界の雰囲気の中でオランダがマンハッタン島を買い取ったの

ですねえ。領土が狭く、海面よりも低い国土をあれやこれやの苦心で生活

していたオランダ人にはこの岩盤が強くて広い土地をどう観たのでしょうか。

 ハンマーで叩いても容易に割れない土地をインディアン語で"丘からなる島"

と言うのだそうですが、この時代のインディアンがこんな安値で売ったという

のは『インディアンの心が、青空のように大きかったという証拠である。』

と司馬さんは感嘆しています。

  この頃はインディアン語はアルゴンキン語だったそうです。

『よろしいその値段で手を打とう。』とアルゴンキン語で言った筈とおっしゃって

います。

  現にその名が残って、『アルゴンキン・ホテル』が残っているのだそうです。

2015年11月7日土曜日

さよなら、加藤治子さん

 加藤治子さんは向田邦子さんと共に語られるヒトだと思います。

向田作品に数多く出演して好評でした。向田さんは50歳の頃に

台湾に遊びに行って飛行機事故で帰らぬ人となりました。加藤

さんのため息,哀しみが聞こえるようです。それ程に加藤さんは

向田さんの作品の中で輝いていました。

 寺内貫太郎一家の中では気短な頑固親父を小林亜星さんが

演じていました。加藤さんはその奥さん役でしたが、何と言っても

《阿修羅の如く》の中の長女役がはまり役だったのではないでしょう

か。次女は八千草薫さん、三女はいしだあゆみさん、4女が風吹

ジュンさん。加藤さんはお花の先生なのですが、旅館の御主人と不倫

関係にあります。色っぽい、と言うか、艶やかでちょっと悪・・・という

おんなの制御し難い心の移り具合をうまく表現していて、凄いな・・・

と思わせました。

  向田さんの作品では一番有名なものが阿修羅の如くですが、私が

一番のめり込んだと思えた作品は《家族熱》です。

この中では加藤さんは三国連太郎さん扮する一家の大黒柱の前妻

という役柄。

後妻さんが浅岡ルリ子さん、息子さん役が三浦友和さん。前妻さんは

どういう訳で家を出たかは語られていませんが、或るとき、前妻さんが

その家に押しかけてきます。

二階に上がる階段の一カ所がキシキシと踏む度に鳴ります。

このキシキシという処で加藤さんが足を踏みしめ、音をゆっくりたてながら、

『そう、ここ鳴るのよね~。』というような感じで台詞を言ったと思います。

  家族に対する思い、家のあちこちに残る想い出が、ここを出て行った

深い後悔とともに思い出されて切ない・・・.こんな感じだったと思います。

 今が不幸だから、想い出がとても切なく大切なのか・・・と感じながら

観ていました。そして、まるで狂わんばかりの懐かしさの中で涙を流し

ます。それを階下から恐怖を感じながら、後妻さん役の浅岡ルリ子さん

が見つめ、なす術もなく、呆然と立ち尽くしている。

  名画面であり、加藤さんの凄い演技でした。

  この脚本を書いた向田邦子さんも一流ですが、受けて立つ加藤

さんも凄いヒトでした。

  この向田さんを師匠と仰いで、向田作品を彼女の死後も作り続けて

いた久世光彦さんも既に亡くなりました。毎年、お正月のテレビドラマ

には向田邦子脚本、久世光彦監督、加藤治子出演、黒柳徹子ナレーション

という黄金の組み合わせが出来ていました。でも、もう終わったのですね。

  我々の時代の色々な想いを詰めていた何かしら塊のようなものが、時間軸

に流されて行く。

  加藤治子さん、あなたが居なくなって、本当に寂しいです。昭和という

時代が『ああ、そんな時代もあったよねえ~。』と語られるのですね。

2015年10月31日土曜日

諸葛孔明その3

 三顧の礼と言えば、諸葛孔明と連想が働くほど有名なこのお話。

  でも、あの立派な司馬遷が書いた『史記』にもあの中国人の誇大

妄想的な大袈裟な表現は否めず、どうもこの三顧の礼は誇張し過

ぎではないか・・・といささか揶揄しながら面白可笑しく書いている

のがこの本。

  孔明は一躍名前を売ろうとして、様々な画策を繰り返し、劉備玄徳

をじらしている。一度請われたからといって、ハイハイ行きましょう・・・

では軽過ぎると思ったのでしょうね。

  何度玄関先に立たれても、出て行かず、仕官したいのに、自分では

行かず、散々焦らした後で、そんなにお求めでしたら、仕方ないな、

行きましょう・・・という道筋をつけたい。

  まあでも、現代においてもこの人間的感情は同じで、少しく、小賢しい

人間はこの位の事をいつも画策していますね。一番面白いのはこういう

模様を傍から眺める時。

眺めるヒトは冷静ですものね。

  で、この酒見賢一さんは冷静に観て、この辺の諸葛孔明を書いてい

ますが、この皮肉な見方が長過ぎて、分析しすぎて、読んでいる私まで

人間の見方が斜めになってきていて、辛いですねえ。


  司馬遷というヒトは親がかなりのお金持ちだったらしく、一生、中国の

歴史を調べて書き続けたヒトなんですって。で、中国はその時代が

終わるとすぐにその歴史を書くヒトがいて、代々続いているのだそう

ですが、司馬遷は何代にも渡って書いた凄いヒトらしい。

  司馬遼太郎さんはそのペンネームにも《司馬遷に遥かに及ばない日本

の太郎》ということでその名前にしたそうですが・・・。

  そして、中国は明の滅亡から歴史書が書かれていないそうですが、

何故ですかね。その後の歴史書が残っていれば、領土問題やら、南京

事件やら、例え身びいきに書いたとしても後世大もめになる事が小もめ

くらいになっていたのでは。

  歴史というのはやはり、その後50年も100年も後にならないと確かな

ことは分からないと言う事も言えますし、現実にその渦中にあったヒトの

それぞれの証言を色々な角度から観なければいけない・・・となると、

正確な分析は不可能かもしれません。でも、書いて残す事は必須です。


  さて、劉備に請われてあの有名な赤壁の戦いで勝利を治めるのは

これまた有名な話ですが、私は劉備玄徳の無計画で無鉄砲、無頓着、

しかもお人好しで、みんなに好かれ、画策などしない、いや出来ない

こんな奴がいいなあ~としみじみ思うのです。

2015年10月27日火曜日

吉祥寺の《茶の愉》

 全面ガラス張りになっているから中が外から丸見えになっている。

座ってお茶しているヒトが全て女性。中でお茶をしながら歓談して

いる様子がよく分かる。こういうお店に入ってみたくて何度も挑戦

しているけど、入れない・・・でも、今日は時間的にも良さそうだ。

アプローチを通って中に入ろうとするけど入り口が分からない。

少しモタモタしていると大きな水色の化粧した板がすすっと動いて

開いた。

  ヒエーですねえ。

  だって、取手もないし、手を引っ掛ける所もないし、天井まで塞いで

いる大きな板が自動で動いて開く・・・のですから。

しかしですね、停電なんてありえない現代では考えないだろうけど、

電気がなければ,作動しないというのはどうでしょう。

勿論そのくらいのことは考えてあるのでしょうけど、デザイナーも設計

士も策に溺れていると、こういう簡単なことに気がつかないもの。

だって、最近我が家のそばの送電線に雷が落ちて、夕方から10時ころ

まで大騒ぎになった時も、近くの電動で動く車庫が開かなくて困ってい

たご近所さんもいましたから。

最近の車だってドアの窓が開かなくて、うまく機能しないために・・・

なんて事故もあるんだし。

  とまあ、こんなことはいいんだけど、ここでせっかく《茶の愉》なのです

から、お抹茶を頼んでみました。なんとご自分で点てて下さいとの指示。

ははは、イヴェント性を入れたのですね。で、二人でしゃかしゃかと点てて

ほろ苦いお抹茶を堪能。そして、抹茶には合わないかなと思ったけど、

チャイフレンチトーストを頂きました。美味しかったですねえ。

 やっと入れた《茶の愉》でした。

2015年10月26日月曜日

諸葛孔明その2

さてさて、この孔明、始めは近隣のヒトから奇人変人と呼ばれ、その意味で

有名人であったそうです。

  自分自ら、《臥竜》と名乗り、衆人を恐ろしがらせたのが効きすぎて、変人扱

いになってしまった。そんな訳でなかなか縁談がまとまらず姉がヤキモキする

のですが、その義理の父の策略を恃みにします。

その地方で大金持ちである黄承彦の娘が嫁き遅れているのを聞きます。

この娘は稀に見る醜女(しこめ)で孔明に劣らず縁談の話がない。背が高く、

髪は茶髪で酷い顔と記されているらしいですが、黄家の娘としかなく、名前は

分からないのですが、なんと、この時、二人とも一目惚れ。

  黄氏はすぐさま結婚したいと嫌がる父親に懇願しますが、孔明は気のない

振りをして策略をめぐらし、まんまと娶ってしまいます。それもスピード結婚だそう

で、この後、3年ほどは俗世間には出ず、晴耕雨読の毎日を送っていたそうです。

  孔明は妻を娶って、腑抜けになってしまったと噂されます。

  が、これも策の内やも知れないと《三国志》の中には書かれているそうです。

  策略家で知られると全てが計の内と勘ぐられるのも辛いところでしょう。


さてさて、ここから愈々私が好きな武将が出てきます。

《劉備玄徳》

《関羽雲長》

《張飛翼徳》

《曹操孟徳》

この人たちは30年ほども前にあの人形作家で有名な辻村ジュサブローさんに

よって作られた芸術的且つ驚異的な着物姿の美しさを見せ付けてくれた作品の

主人公でした。

NHKの《人形劇三国志?》に出て活躍した素敵な武将達です。夕方の5時か6時

ころにテレビで放送されていたのを子ども達と夢中になって観ていたのを思い出し

ます。

  このジュサブローさんは坊主頭に着物の着流しスタイル。巾着袋を下げて颯爽と

歩いていました。

  私は長いこと、この主人公達が、中国のどの時代のヒトでどういう生き方をしたのか

どういう武将について闘っていたのか、どんな地方の生まれで、どういう係累がいた

のか、その辺の詳しいことを知りたいと思いながら、今日まで調べられずにきたのを

残念に思っていました。司馬遷の《史記》まではいかないまでも陳舜臣さんの《史記》

ぐらいは読みこなしてみたいと思っていました。それもまだですが。

  でも、司馬遼太郎さんの《項羽と劉邦》は面白く読みましたし、酒見賢一さんの

《墨攻》は小説でもコミックでも読んで格段に面白い・・・とおもいました。

この墨攻では小国・梁王が援軍を頼んで墨家に願いを入れるのですが、たった

一人の軍師《革離》がやって来て、様々な技術と知恵を使ってこの窮地を脱します。

  それがなんと、ボートピープルとなって日本にやってくるという結末です。

面白い発想ですが、司馬さんにもこれと似た発想で中国のヒトが日本にやってきた

のではないかの記述があります。そっとつぶやいた程度ですが。

  中国の越、呉、楚などの名前のついた場所がありますよね。越前、越後、呉(くれ)

九州には楚という処があるそうです。


 さて、これから、劉備は《三顧の礼》をもって諸葛孔明を迎えに行きます。


  

2015年10月23日金曜日

諸葛孔明

インドの人たちは何故か歴史を軽く観ていたフシがあって、史実を書き残す

という習慣がなかったそうですが、そこにいくと中国は史実を書き残す事に

熱心だったようですね。

 そのお陰で私たち後世の人は全くの事実ではないにしても、それなりにその

時代に生きた人間の生き様を窺い知る事ができます。中でも司馬遷が書いた

『史記』は壮絶で雄大でこれを読んだ後世の人々は感動したり、いやそうでは

ないのでは・・・と疑問を挟んだりしてはいますが、この歴史書が残っている

お陰で我々は多いに楽しめているのですね。

 春秋時代の戦乱がようやく収まって、中国の辺境に住んでいた政が秦という

国を興して秦の始皇帝になった話は余りにも有名です。

度量衡を定め、万里の長城を作り、国を30何県かに定めて、法律を作り、

この法律に従わない者は容赦なく殺すなり、罰するなりをして、治安を図った。

 この政というヒトがどういうヒトであったかはあまり記述はなさそうですが、

自分一人だけを『朕』と呼ばせたことや、文字通り高い所に座って、臣下を

階下に座らせて、『陛下』と呼ばせた・・・などはこれがそのまま日本の文字文化

に影響を与えて、今の皇室で使われているなどは驚きですよね。そして、とん

でもない天才だったのではないでしょうか。

 このヒトが国を治める為に常に諸国を回っていなければいけなかったのは、

悲壮ですね。結局50歳の若さで亡くなります。

 この壮大な知謀知略で築いた国がなんと一代で終わってしまうのも皮肉です。

自ら敷いた刑罰主義が命取りになりました。地方に派遣していたわずか800人

の兵が大雨の為に河を渡れず、期日までに到着出来ない・・・遅れれば、即死刑。

 兵士達はやけになってしまいます。そして、反乱を起こす。その時たまたま遠方

から帰ってくる兵士がやはり期日までに帰って来られない・・・が重なり、この二つの

偶然が重なって《秦》は滅びます。

 この後、いよいよ『項羽と劉邦』が活躍して漢が出来るのですね。

 その時大いに重用される『諸葛孔明』が知恵者として登場します。

 この『泣き虫弱虫、諸葛孔明』の本はこの時代の中国に憧憬が深い酒見賢一

さんの作品です。以前この方の《墨攻》を読んでワクワクするほど面白かった

のが、印象的でした。結末はなんと驚くなかれ、日本人のルーツが分かるという

筋書きでしたよ。

 さて、この諸葛孔明さんは曲者です。


2015年10月14日水曜日

和洋折衷《スリッパ考》

あの着物姿に革靴の坂本龍馬の写真を観る時、私はふと思う。

日本人で初めて革靴を履いたのは坂本龍馬ではないか・・・。

そうではないにしても、おそらく日本諸国を歩きに歩いた彼に

とっては、草鞋は余りにも役に立たなかったのではないか。

そこへ革靴の登場である。

あの合理主義の、利に聡い龍馬が

『これは凄い!』

と早速取り入れ、着物姿に革靴という何とも珍妙なファッションで

あの明治維新寸前の、空気が沸騰している中を闊達に自由に歩き

回ったで有ろう事は想像にかたくないですね。

この時代は西洋人が盛んにやってきた時。

金持ちの商人や、幕府の役人たちはタタミの上に絨毯を敷いて、

応接セットを置いたり、椅子とテーブルを置いたりして外国人をもてなし

ていました。

しかし、この外国人の靴は困りものだったにちがいないですね。

今のように舗装されていないのですから・・・。

時に彼らが泊まる宿屋や神社仏閣ではかなり迷惑だった筈。

そこで、東京八重洲の仕立て職人が室内用上履きとしてスリッパを

考案したんだそうですね。


そして、時は過ぎて戦後は列強に追いつけ追い越せの元に、住宅や

生活様式が欧米並みになり、一般庶民にも広まって来ました。

今や机の生活がどんな家にも普及してタタミの部屋がない・・・という

家も多くなりました。

私の知り合いには"ロイヤル井草"というスリッパの会社を起こし、一躍

優良企業に仕立て上げて大成功したヒトがいます。


事程左様にスリッパは普及したのですが、さて、話は病院のスリッパに

うつります。一昔前の旧式の個人病院は入り口を入ると、スリッパに履き

かえました。このスリッパは片付ける時、片方づつを互い違いにつま先

部分を頭に入れて仕舞います。又は旅館やホテルでは山のように積み

かさねます。旅館やホテルはまだ許せるとしても病院は重ねたらアウト

ですよねえ。

病院の床の病原菌がついているかもしれないのに、それを重ね、又違う

ヒトが履くなんて信じられない。

一時、タワーのような箱形の機械に使い終わったスリッパを乗せると、

それが、殺菌されて下から出てくる・・・という機械を置いている病院が

ありました。

今は靴を脱いで入るという病院はなくなりましたね。

というか、公共施設、会社、レストラン、ホテル、などなどほとんどの

建物が靴のまま入る形式になりました。よほど、和を強調するところ

以外は・・・。


さて、日本の住宅は夏涼しいように出来ています。冬、スカートやズボン

でも靴を脱いでスリッパに履き替えて、テーブルの椅子に座っていると

寒いですねえ、足が。

外国の家、特にアメリカの映画など観ていると、スニーカーや靴のまま

ベッドに身体を預けて寝転ぶのを観ていると、本当に家でも靴を脱がない

のだなと感心しますが、これだから、足が寒くないのですねえ。

和洋折衷はだから難しい。

そうそう、龍馬は靴は暖かいなあ・・・と気がついていたのでは・・・。





2015年10月3日土曜日

舌から鱗

疲れる、だるい、何となくやる気がしない・・・こんな不具合を随分前は

《不定愁訴》とかなんとか言っていたと思う。今はこんな言葉を聞かな

くなったけど、正にこんな状態が8月頃には私を支配していたような気

がする。

で、思い出した。自分が玄米食をやっていた事を。

十年程前にも中性脂肪がやや多めですとか、『血中コレステロールが・・・』

とか言われていました。でも、どうしても薬に頼るのが嫌でした。

食事療法を自分なりにやってもなかなかうまくいかない。

お医者様は

『食事療法なんて無理ですよ。』とにべもない。

そこで始めたのが玄米菜食。

やせるつもりもないのに、いつのまにか健康に痩せていた。

それなのに、玄米食が3年程前からグズグズに崩れてきてしまい、

肉食に戻っていた。

『やっぱり、お肉を食べなくちゃ、力が出ない。』なんて言って。

で、玄米食にほんのちょっとでも戻ると、舌がかわるのですね。

コンソメが不味い。合成調味料がすぐ分かる程にその科学物質を感じ

てしまう。又、昆布と椎茸で出汁をとるのが辛いけど・・・いやいや、この

辛いと感じているようではダメなんですね。やりはじめるとなんでもない

ことだったのに、そう感じた時から、続けられない・・・が始まるのですね。


で、玄米にすると魚は合うのですが、お肉は合わない、というかまずい。

大根おろしや、青菜のごま和えとか、そして、お味噌汁が圧倒的に合うし、

美味いですね。納豆、豆腐、厚揚げの煮物など、昔からある食材が美味

しいんです。

白米は江戸期の元禄時代にお金持ちの食事として始まったそうで、この

栄養分を削ぎ落した白米は後に脚気なども引き起こしたわけですね。

今の時代は食べ物が溢れているご時世だから、脚気は問題にはならなくて

むしろ偏った過剰な栄養摂取が問題になっています。玄米を食べていれば

食物繊維は無論、あらゆる栄養素が含まれていて、ビタミンだタンパク質だ

カルシウムだと騒がなくてもいいのに・・・と思う。

やはり、この縄文時代からの食事が日本人の健康食なんですね。

《目から鱗》いや《舌からうろこ》です。

2015年9月30日水曜日

吉祥寺《森の珈琲》

最近、吉祥寺に行くと必ず寄るお店がここ。

今までは散々歩き回ってもそのまま直帰で家に帰ったりしたのだけど、

歳ですかねえ、何処かに座りたくなる。それも、落ち着いていて、それ

なりに寛げる場所でないと嫌ですね。

かと言って、余り駅から遠いと疲れている時は無理。

座る場所も、椅子の形状も選ぶので、かなり限られてくる。

ハモニカ横町の近くのレモンドロップは最近何故か落ち着かない。ホスピ

タリティがイマイチだし、横にパチンコ屋があるのが気になる。

ブックス・ルーエの近くの老舗の喫茶店は全部ソファーで座り心地がいい

のだけど、やはりいつも混んでいて座れない。

ヨドキチの前の通りにあるスターバックスもいつも混んでいて、座る所は

止まり木くらいしか空いていない事が多く、やはり却下。というか有り体に

言えば、ここの珈琲をあまり美味しいと感じたことがない。こんなに珈琲

文化を日本に定着させたお店で映画にもやたら出てくるお店なのに。


吉祥寺東急の裏手にある多奈加亭は老舗で雰囲気も、これぞ喫茶店の

典型的在り方と言う所。サンドイッチも珈琲も美味い。しかし、買い物の

帰りに寄るとなると少し遠いかなあ。

で、最近よく行くのが、駅前通りのパルコの一階にあるお店。

ここの森の珈琲がうまい!

今日はブルーベリーのシフォンケーキとともに頂いて大満足。

ここのシフォンケーキは文字通り、絹の様な軽さ。もう一個食べたいな・・・

と危うく頼みそうになってしまった。無論食べてもいいのだけど、なにか

恥ずかしい。

でも、この軽やかさはどうやって作るのだろうか、粉が違うのか。

家で作ると粉のザラッとした感じが残ってしまうのに、これは正にシフォンの

軽さ。今まで食べた中ではここのシフォンに勝るケーキはないのでは・・・と

思うほど。

武蔵境か、武蔵小金井だったろうか、オーブンミトンという有名なシフォンケーキの

お店があるけど、ここのケーキもこれほどではなかったような気がする。

ともかく、シフォンケーキもう一度研究するのもいいかも。


2015年9月25日金曜日

『選択の科学』その2、自分で決断する危うさ

『選択の科学』ではある実験結果をこう分析しています。


早産で生まれた赤ちゃんは保育器に入れられて、様々な不都合の為に

人工呼吸器で命を永らえています。もし、無事そこから出られたとしても

脳が機能せず、話す事も聞く事も出来ず、一生車椅子で過ごす事になる。

その時、あなたならどうしますか・・・という設問がある。

以前は医者の判断で呼吸器を止めると言う事が公然と行われていたが、

インフォームド・コンセントという考え方が始まり、医者は患者に事前に

詳しく説明してどうしますか・・・と言う事になり、決めるのは両親に任せられる

ようになった。

自由主義社会では個人に関係する事には本人の自由意志が尊重される。

しかし、この場合、両親に子どもの人工呼吸器を止める判断を任せる場合

と医者が決断をする場合とでは親の精神的負担は大きく違う。

つまり、アメリカとフランスの場合ではこの辺のところが微妙に違っている。

アメリカの両親の場合は決断は両親に任され、『もし、あの時違う決断を

していたら・・・』というような後悔がいつまでも付き纏う。

フランスの場合は最後は医者の決断があり、アメリカの両親のような後悔は

ない。

事程左様に自分で決断する・・・というのはそれぞれに陰影を残すものらしい。

『ソフィーの選択』のように丁か半かを自分で決めるというのは辛いことなのだ。

ソフィーは自分の子どもの二人のうちどちらか一人をガス室送りにしろ!と言われて

身体の弱い子を選んだ事に苦しめられる。


さて、私の心臓のステント手術があっさり終わった後、毎日飲む血栓を溶かす

薬が問題だった。

なんせ、胃が痛いのだ。

ネットで調べると強い薬なので胃が荒らされる、だから、胃薬も毎日一緒に

飲む事とある。

しかし、あまり痛い日が続いたので、ひと月程この薬を飲まない日が続いた。

流石に、医者に呆れられ、また飲み始めたのだが、胃が痛いのは薬が原因

ではなかった。知識がないことからの誤った選択だ。

それから、食べると痛い・・・を繰り返していて、一年ほど経ってから、夕飯に

食べたサバの塩焼きが

『まずいなあ~。バサバサで美味しくない。』から始まった胃の痛み。

『病院につれて行って。』をメールで送ったを最後に気を失った。

気がつけば次の朝、病院のベッドの上で胃が痛い・・・を繰り返していて、吐いた。

誤った選択がとんでもない事になったのだ.


2日後に撮った胃カメラで

『立派な胆石だな~、ゴロゴロあるよ。』

激しい痛みは胆石だったのですね。


2015年9月11日金曜日

ワンダフルな虹

誰かに怒りをぶつけているかのような土砂降りが毎日続いて、

うんざりしていた。

ほんとにもう、家の中は湿気ていて、床はペタペタするし、何が

嫌かと言って、玄関の木のドアは水分をしっかり吸って膨張して、

開けるも閉めるも重くて大変な事になっている。


昨日は夕方に小やみになったのを幸い、善福寺川にかかっている

橋を渡ってみると濁った水がゴーゴーと流れている。

うわ、凄い量の泥水!

でも、空が明るい。

見上げると、見事な虹!

気象庁では60年ぶりの大雨だと言っていたけど、こんなクッキリ見事な

虹は見た事がない。

いつも儚げな風情の虹しか観た事がないのに、今日は半円の虹が

太い筆で一気に書かれたように筆跡を残している。

思わず携帯を取り出し、良い角度で撮ろうとして道の真ん中に立っていると

バスやら、タクシーが来て邪魔をする。

気がつけば、2~3人のヒトが同じように携帯を虹に向けていた。


思いもかけず、良い物を観たな!とウキウキして先生の家の玄関を開けると

我が家と同じ音がする。ぎぎぎい~。

既に来て練習をしている子ども達は今日の大雨で近くの家までが浸水した

と興奮して話している。

『NHKが来てたよ。川のそばでなんか報道してたし・・・。』

『でも、近くの家に被害はなかったのでしょ。』

『あったよ。あそこは川より下なんだから。』

・・・。

子ども達に今観た虹の話をすると

『見せて、みせて!』と大騒ぎ。

『画面でっけ~。』とか、

『画質がいいなあ~。』とか。

やはり、子どもは屈託がなくていい。


2015年9月9日水曜日

丁か半かを自分で決めたい時。

確かに凡人の我々には難しい場面での判断を下すというのは難しい。

例えば、病気の時。

お医者様というのはプロなのだから、全てお任せする方がいいし、素人の・・・そして、

病気であるというただならぬ事態を抱えている患者には冷静な判断が出来るわけが

ない。それも一刻も争うなどと言う時には。


2012年の頃、何やら、時々胸がなんとなく苦しい。

胸を抱きかかえるようにしてうずくまると少し収まり、それからしばらくはそんな事が

ないのだけど、又一週間もするとそんな風に苦しい。

内科に行けばお定まりのレントゲン、心電図、で、何も異常がないですよ・・・との診断。


いやいや、そんな事はないを主張して、ひと月後の超音波検査を予約。

ここでは私の食い下がろうとする選択があった。

その検査でちょっと引っかかる所があるとの事で、MRIの予約。これも3週間後。

で、分かったのは、心臓を取り巻く大動脈の一本が75%詰まっているという写真。


やはりそうなんだ。

このまま知らずにいけば、心筋梗塞で大騒ぎになるところだった。

普通、こんな風に気がつかずに生活していて、何か変だな・・・くらいで過ごして

いるのだろう。。

75%詰まっていてもこの程度なら・・・。


それから2週間後、手術に決まった。

本来なら開胸手術で患者の負担も大きく、入院も長くなる。

だが、ステントという蛇腹になっているものをその部分まで入れて、患部でパカっと

広げるとその狭い部分が広がり、それで手術はおしまい。

一日か二日の入院でそれも局部麻酔で、いやなに簡単ですよ・・・とおっしゃる。


実際その通りに簡単だった。

身体にも負担がなく、心臓という大臓器の手術だったにも拘わらず、傷もなく、

入る病室がないので手術後に待機する部屋でもう一泊というので、

『いやいや、帰らせてもらいます。』

とまるで、ホテルの予約を断るかのように家に帰った。


こんな大手術なのに、家族は余りのあっさりしたご帰還に呆れていたかもしれない。

で、手術は簡単です、開胸に比べて負担が少ないです・・・に釣られてした手術だった

のだけど、果たしてこれで良かったのか。



その後、

毎朝血栓を溶かす薬を飲み続けなければいけない。

ステントが血栓を掴みやすくしているので、普通以上に食事に気を付けなければ

いけない。

血が止まりにくいので、決して、怪我をしてはいけない。

事実その通りで、その後、頭に物を落として、切り傷を作り、結構な量の出血に

驚いて、病院へ。その後も、お正月の元旦に棚の角に額をぶつけてまた、また、

ダラリと出血。回りをあたふたさせて病院へ・・・という粗忽者の私を認識。


そして、その血栓を溶かす薬との付き合いが始まったのだが、これが難物だった。

胃が痛いのだ。

そこで胃の負担を和らげる為に、胃薬も頂く。

その後が長い話になる。

サイコロを振る話は続きます。