Acousphere Live 2016.10.11 吉祥寺Star Pine's Cafe

2016年10月11日(火曜) 吉祥寺スターパインズカフェにてスペシャルライブイベント「Acousphere with Friends」を開催します! 
Acousphere Recordに所属するアーティストが一同に集うライブをお楽しみください!
日にち:2016年10月11日(火曜)
場所:吉祥寺スターパインズカフェ 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
出演:Acousphere / Acoustic Sound Organization / Aerial / Sonascribe
時間:Open 18:00 / Start 19:00
前売り ¥3,900+1drink / 当日 ¥4,900円+1drink
詳細はこちらをご覧下さい!

2015年11月28日土曜日

司馬さんの観た《蒙古塚》

 私たちが夢に描く単純で壮大な物語というのは決して

  《大儲けをして大きな家を建てて・・・》

  という使い古されて世間の垢がついた陳腐でつまらない望みではなく、

  《大草原を馬を駆って駆け巡る》という地上の王たる人間を肌で

感じるような生き様ではないだろうか。決して機械に頼るのではなく、

自分の才知で何処までも草原を走り回り、獲物を捕らえてその時の

食料だけを糧にして生きる。文化とか、文明に侵されずに・・・。

  井上靖さんの《蒼き狼》が発表され、小説や演劇で元(げん)王朝のジンギスカン

の物語に触れて、どれほど憧れたか。

井上靖さんや、平山郁夫さんや司馬遼太郎さんらが中国政府に招かれて

シルクロードを旅して歩いた後、NHKではシルクロード特集を流した。

どれだけ多くの日本人を魅了したことか。

そうそう、ナレーターが石坂浩二さんで、その声にも魅了された。

  特に司馬遼太郎さんは大阪外語大学で蒙古語を学んだというのですから、

その喜びや学問的欲求をどれほど満たされたことか・・・。後に多くの事柄を

小説やエッセイに書いておられますね。

  最近、地方に移住して自分の畑を確保して、食料は自分で・・・、という生き方に

憧れるヒトが少数でもいるという。日本という狭い国土では馬を駆って走り回り、

獣を捕えるという夢は難しいですが、せめて食べるものは自分で・・・という生き方は

良さそうだ・・・というのは言えそう。

結構かなりの数の芸能人は田舎暮らしを可能にしている。

これらの人たちは多分サラリーマンのような定収入が得られなかったから、真剣に

どう生きるかを考えた、のかな。

つまり、時給自足をすれば、お金という貨幣に縛られなくても済む。

  そうなると出世とか、沢山の貯金とかが瑣末な物に思えてくるらしい。

  

  さて、フビライ達は農業をするヒト達を軽蔑していた。野菜を見るだけで震えが

きたというのだから、今の子どもたちには嬉しい話題にちがいない。

  そして、野菜などは食べず、ひたすら羊を食べていた・・・らしい。今の我々から

考えると本当にそれで大丈夫だったのかと思うけど、定住はせず、羊が食料だった

というからそうなんでしょうね。

そして、羊一頭を完全に食べ尽す・・・それは羊という生き物に最大の感謝の念を

捧げる事なんだそうです。

  今の健康知識から考えると肉だけを食べるというのはオソロしい事ですが、この

ヒトたち、民族はそういう身体になっていたというのもそうでしょうが、羊の血液まで

飲んで、ミネラルなどの栄養素を摂取していたというのですから、一応、理に叶って

いたのでしょうね。

  この蒙古の民の平均寿命を云々するのはどうでしょうねえ。長生きが最高の幸せ

とは限らないのですから・・・。

  

  さて、さだまさしさんの大お婆さん?はかつて満州に住んでいたらしく、馬を駆って

草原を走っていたらしいですね。そして、盗賊に遭い、色々盗られてしまったらしいの

ですが、肌身離さず、大切に持っていたものだけは守ったという武勇伝が残っていた

のだそうです。確かかどうかは分かりませんが、極最近までそんな話が残っている。

  決して夢物語ではないのかもしれません。

そんな折り、上野の平成館で《大兵馬俑展》を開催しています。元帝国ではなく、それ

よりずっとずっと前の紀元前のことですけど、やはり広大なあの2大河川に挟まれた

高原を走り回ったヒト達の昔話しです。観に行かなくては。


  


2015年11月13日金曜日

公園という思想

『自然を残すというのは、"文明"が持ち始めた新しい意志である。』

 


  司馬さんはニューヨーク散歩でこう書いておられますが、まさに

そうなんだなと思わせられます。まだ息子が中学生の時に訪れた

ニューヨークには鍵のかかる公園がありました。

  街を歩いていると初老のお婆さんが鍵を開けて公園に入っていく。

タクシーの運転手に聞いたら、会員制の公園です・・・と言っていま

した。公園は公共性のあるものと思っていた私には奇異な制度だな

と思いましたし、今の若者に言ったら、平等思想で『そんなの差別だ』

と切り返されそうですが・・・。

 そして、又、《本郷界隈》では司馬さんはこんな事を書いています。

オランダ人ボードインの事情の処でこうも言っているんです。

明治政府は大学東校の建設計画書を持ってボードインに見せます。

政府は上野の山王台から鴬谷一帯にかけて病院を建て、散歩道から

下谷、浅草を見下ろせるという結構な案を提案しました。

ところが、石黒忠直が案内するうちにボードインは

景色の幽邃さに感心しました。こんな見事な都市森林を持っていながら

それをつぶすとは何事であるか、西洋では市中に森林がなければ

わざわざ造林するほどだ!・・・と言ったのだそうです。

  当時、日本には公園という言葉がなく、そういう思想もなかった。

  明治政府は早速この案を取り入れました。

  そして、替わりに、この周辺の加賀藩邸を買い上げ、今の東京大学

を創ったんだそうですね。

  オランダ人ボードインが進言しなければ今の上野公園はなかった

ということでしょうか。

  最近の我が杉並は公園が結構あります。少し多いくらいですが、この

公園の多さには理由があります。戦前からの旧華族や旧有名人の

昔の栄華を誇るお屋敷がたくさんあります。その遺族が色々な理由が

あるとは思いますが、私の浅知恵では固定資産税を払い続けていくの

が苦痛・・・という実情があるのではとも思えます。大田黒公園、与謝野

明子の縁の或る中央公園、角川家の角川幻戯公園などなど・・・。

そして、区などの行政に始末を頼むという仕儀に陥ってしまうのでは

ないか。今回もあの有名な《荻外荘(てきがいそう)》が区の公園になり

つつあります。あの近衛文麿氏のお屋敷です。戦後70年と言えば、曽孫、

玄孫の時代でしょうか。時代の移り変わりは仕方ないにしても、そういう

理由で公園になっていくというのは

 《公園が出来て嬉しい・・・》と言う前向きな感動が生まれませんね。

2015年11月9日月曜日

司馬遼太郎《ニューヨーク散歩》

ニューヨーク・マンハッタン島


 マンハッタン島を買い取ったのはオランダ人というのはよく知られて

いますが、ここをたったの60ギルダーで買い取ったのだと司馬さんが

書かれています。驚きです。

 一ギルダーはオランダ本国での石くれ一個の値段。オランダには石が

ないためスイスなどから輸入したのだそうです。その石くれは赤ちゃんの

頭ほど。その石くれ60個がマンハッタン島の値段。無論その時は現金

ではなく、60ギルダーぶんのガラス玉や酒類、雑貨類などだったそうです。

  流石に司馬さんも正確を記す為に『この事はライデン(オランダ)市役所

で確かめた。』と書いておられます。司馬さんは必ずその出典を挙げて

史実を述べていますが、こんな素人が言うような言い方で『ほんとうです。』

と言っているのは珍しいですね。読んでいる私もクスッとしてしまいました。

 さて、このオランダがアメリカ開拓を目的とした西インド会社を作ったのが

1621年。マンハッタン島を買い取ったのが、1626年。この頃の日本は徳川

家光の時代で鎖国が行われる数年前なんですって。この頃は日本人も

海外発展をしていて、播州高砂の徳兵衛という者が天竺(インド)まで行って、

貿易をしていたし、山田長政もシャム(タイ)で活躍していたそうです。

 そういう世界の雰囲気の中でオランダがマンハッタン島を買い取ったの

ですねえ。領土が狭く、海面よりも低い国土をあれやこれやの苦心で生活

していたオランダ人にはこの岩盤が強くて広い土地をどう観たのでしょうか。

 ハンマーで叩いても容易に割れない土地をインディアン語で"丘からなる島"

と言うのだそうですが、この時代のインディアンがこんな安値で売ったという

のは『インディアンの心が、青空のように大きかったという証拠である。』

と司馬さんは感嘆しています。

  この頃はインディアン語はアルゴンキン語だったそうです。

『よろしいその値段で手を打とう。』とアルゴンキン語で言った筈とおっしゃって

います。

  現にその名が残って、『アルゴンキン・ホテル』が残っているのだそうです。

2015年11月7日土曜日

さよなら、加藤治子さん

 加藤治子さんは向田邦子さんと共に語られるヒトだと思います。

向田作品に数多く出演して好評でした。向田さんは50歳の頃に

台湾に遊びに行って飛行機事故で帰らぬ人となりました。加藤

さんのため息,哀しみが聞こえるようです。それ程に加藤さんは

向田さんの作品の中で輝いていました。

 寺内貫太郎一家の中では気短な頑固親父を小林亜星さんが

演じていました。加藤さんはその奥さん役でしたが、何と言っても

《阿修羅の如く》の中の長女役がはまり役だったのではないでしょう

か。次女は八千草薫さん、三女はいしだあゆみさん、4女が風吹

ジュンさん。加藤さんはお花の先生なのですが、旅館の御主人と不倫

関係にあります。色っぽい、と言うか、艶やかでちょっと悪・・・という

おんなの制御し難い心の移り具合をうまく表現していて、凄いな・・・

と思わせました。

  向田さんの作品では一番有名なものが阿修羅の如くですが、私が

一番のめり込んだと思えた作品は《家族熱》です。

この中では加藤さんは三国連太郎さん扮する一家の大黒柱の前妻

という役柄。

後妻さんが浅岡ルリ子さん、息子さん役が三浦友和さん。前妻さんは

どういう訳で家を出たかは語られていませんが、或るとき、前妻さんが

その家に押しかけてきます。

二階に上がる階段の一カ所がキシキシと踏む度に鳴ります。

このキシキシという処で加藤さんが足を踏みしめ、音をゆっくりたてながら、

『そう、ここ鳴るのよね~。』というような感じで台詞を言ったと思います。

  家族に対する思い、家のあちこちに残る想い出が、ここを出て行った

深い後悔とともに思い出されて切ない・・・.こんな感じだったと思います。

 今が不幸だから、想い出がとても切なく大切なのか・・・と感じながら

観ていました。そして、まるで狂わんばかりの懐かしさの中で涙を流し

ます。それを階下から恐怖を感じながら、後妻さん役の浅岡ルリ子さん

が見つめ、なす術もなく、呆然と立ち尽くしている。

  名画面であり、加藤さんの凄い演技でした。

  この脚本を書いた向田邦子さんも一流ですが、受けて立つ加藤

さんも凄いヒトでした。

  この向田さんを師匠と仰いで、向田作品を彼女の死後も作り続けて

いた久世光彦さんも既に亡くなりました。毎年、お正月のテレビドラマ

には向田邦子脚本、久世光彦監督、加藤治子出演、黒柳徹子ナレーション

という黄金の組み合わせが出来ていました。でも、もう終わったのですね。

  我々の時代の色々な想いを詰めていた何かしら塊のようなものが、時間軸

に流されて行く。

  加藤治子さん、あなたが居なくなって、本当に寂しいです。昭和という

時代が『ああ、そんな時代もあったよねえ~。』と語られるのですね。