Acousphere Live 2016.10.11 吉祥寺Star Pine's Cafe

2016年10月11日(火曜) 吉祥寺スターパインズカフェにてスペシャルライブイベント「Acousphere with Friends」を開催します! 
Acousphere Recordに所属するアーティストが一同に集うライブをお楽しみください!
日にち:2016年10月11日(火曜)
場所:吉祥寺スターパインズカフェ 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-20-16 B1
出演:Acousphere / Acoustic Sound Organization / Aerial / Sonascribe
時間:Open 18:00 / Start 19:00
前売り ¥3,900+1drink / 当日 ¥4,900円+1drink
詳細はこちらをご覧下さい!

2013年9月14日土曜日

“空海の風景”下巻

司馬さんは雑密の世界が好きだった・・・というのは
意外な感じもするが、前からこの事はどういうことなのか
という疑問を持っていました。

『雑密というのは、インドの非アリアン民族の土俗的な
呪文から出たと思われるが、その異国の呪文を唱える
ことによって何らかの超自然的な力を得たいとい願うこの
島々の山林修行者が時に痛ましく、時に可愛らしく思われた。』
と司馬さんは言っています。

平たく言えば、安倍晴明などの出てくる"陰陽師"の世界
なのかと思いますが、例えば明日呪文によって雨を降らせる
とか、誰かの病気平癒を願って火を使い、護摩を炊き錫杖
のようなモノを振り回すようなものらしいんですね。
こういうようなシーンを映画の一コマとして観て、私は
かなりバカバカしいと思っていました。
妙な処で信じて仕舞えば大変な事になる・・・と近ずくのを
恐れていました。
しかし、私の実家には所謂祈祷師のような小父さんが時々出入り
していました。
この人は私の右手のペンだこのようなモノを蛇の抜け殻でこすって
治してしまった事があります。
その辺の細かい情景は覚えていませんが、確かにあのザクロのような
デキモノは治ってしまいました。

司馬さんは戦後の7〜8年間に仕事で京都の寺々を回ったそうで、
この時に日本思想史上、密教的なものを最も嫌っていたと
言っています。
純粋に非密教的な場を作り上げた親鸞のほうが好きになって
いて、好きなあまり、自分の中にある雑密好みを追い出そうと
しています。
しかし、皮肉にも現実に接触した僧たちとしては真言宗の、
つまり密教の僧のにおいの方がどの宗派の僧よりも人間として
切実に感じられるように思えてその人達と最も親しくなった
と言っています。

『空海の風景』というのは果たして小説なのか。
空海が生きていたその時代の日本、当時世界一だったという中国の
長安の都の風景、それに比べて日本という国の何と卑小な佇まいだったか。
とにかく、千年以上も前の人を小説にするのですから、大変だった
と書いています。
文章も"〜だったのではないか、〜と言ったと思われる、〜と感じた
に違いない。"という書き方がそこここに登場して、司馬さんの真摯な
態度が感じられます。

空海は日本一の天才だったと言います。
空海は日本文化の最も重要な部分を一人で創設したのではないか
と思われるほど様々な事をしたそうです。
日本思想史上の最初の著作とも言うべき『十住心論』を書きました。
政治的には密教教団を形成し、芸術的には密教に必要な絵画、彫刻、
建築から細々とした法具までの制作。
庶民階級の最初の学校『しゅ芸種智院』を京都に開設、詩や文章
を作るための法則を論じた『文鏡秘府論』まで書き、さらに、
『篆隷万象名義』という日本の最初の字書もつくりました。
このほか、讃岐の満濃池を修築し、あいまいではあるが、『いろは』
と『50音』を作ったとも言われている・・・らしい。

空海は孤独だったのではないか・・・と司馬さんは言います。
晩唐の文化は長安において爛熟していて、彼は自分の水準ーつまり
知的好奇心を含めてーに近い人々を仲間に持つ事に不自由
しなかったばかりか、向こうからかれの盛名を聞いて交わりを
求めて来る者も多かった。人生の悦楽の一つは自分と同じ知的水準
の人々と常時交わりを持ちうる事であるとすれば、帰国後の空海に
おけるこの面での寂しさはあるいは当然の事であったかもしれない。

空海は天皇にも倦き、京の田舎くさい貴族たちにも倦き、あるいは
南部の泥臭い長老たちを相手にしていたことにも倦いていたのでは
ないか。
空海の最初の弟子、実慧にも長安の都が恋しい位の事を言ったのでは
ないか・・・と筆者は考えます。
思えば、感情の量の多い人だっただけに狂おしい程のものがあったのでは
ないか、日本での空海は孤独であったろうと。

空海は承和2年(835年)3月丙寅(21日)に紀州高野山において生を
了えた。高野山の奥の院の廟所に黙念と座って居ると信じられている
など、諸説あるが、荼毘に付された、つまり火葬されたという記述が
ある。

今空海を思う時、司馬さんの、彼は孤独だったのではないか、の言葉が
哀しい。