今日は『西田哲学と鎌倉仏教』の2回目。
もともと日蓮宗のお寺の息子さん?とかいってらした田中久文さんは
独特の講義スタイルです。
ボタンのような小さいマイクをいつも口のそばに持って行って、
ご自分でも録音をしているようなのですが、定かではありません。
田辺元さんの『正法眼蔵の哲学私観』を元に繙いていましたが、
わたしにはチンプンカンプンで、多分相当読み込んでも理解は
出来ないのかもしれません。
言葉の意味を理解したとしても、そこに説かれて居る宗教というか、
哲学がわかるというのは難しい。
おそらく、分かるというのは実践出来るということなのでしょう。
そうなると、分かる人は一人もいないのかも。
チョット面白そう・・・と手を出したのが間違いですね。
でも、2年前に鎌倉の建長寺で聞いた『只管打座』の意味をもっと
はっきり説明をして頂いて、来て良かったとおもいました。
『只管打座』しかんだざ・・・ただ、ひたすら座禅をすれば良い。
という事は、文字通り座禅をさえすればいいのだろうか。
そういうひたすら信じると言うスタイルは難しいですねえ。