『言論の自由』とは。
内田さんは続けます。
『呪』の効力を解除するためには『言論の自由』という誤った言い回しで許しては
いけないと言います。
今の日本では言論の自由を誤解している。
あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り、口にされる
権利がある。すべての言葉はそれを聞く人、読む人がいる。
メッセージはその正否真偽を審問される場に差し出される時、『その正否真偽』
を審問する場の威信を認めなければならない。
私は誰がどう思おうと言いたい事を言う。この世界に私の意見に同意する人間が
一人もいなくても私はそれによって少しも傷つかない・・・と主張する人間がいた
とする。
この人は『誰の承認も得なくても、常に正しい』というのだから、言論の自由
を求めないのでは。
言論の自由というのはまさに『他者に承認される機会を求めること』なのだから。
発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく、『自由な言論の行き交う場』
そのものである。『場の審判力』への私からの信認からしか言論の自由な往還は始
まらない。そういう場はいまの所ないのだから、これを創りださなければならない。
と内田さんは言います。
そして、この言葉が素晴らしい。
『・・・言質の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について、
高い頻度で適切な判断を下してきたという(通算成績)に担保されている。』
さて、それからなんだけど、
言葉を差し出した相手、それは誰かはわからない。
どれほど、知的で、
どれほど、論理的であるのか、
どれほど、市民的に成熟しているのか、
それが分からない。
その見知らぬ人に向かって、自分の言葉の正否真偽の査定を付託する・・・しかない。
これは絶望的に難しいのでは。
今国会の安保法案を巡っての国会議員の議論沸騰などはもう収拾がつかない。