内田樹さんは『匿名の書き手』というタイトルでこの時代を
分析しておられます。
例えば、ノーベル賞級の科学的発見をするような人は匿名
でインターネットに自分の仮説を公表しない。
匿名者が知的所有権(嫌な言葉だが・・・)を主張しないのは
合理的に推論すれば自分が発信しているメッセージが知的に
無価値であるということを知っているからである。
しかし、数百、数千万の人々が匿名で発信し続けている。
何の利益もないことをこれほど懸命にはやらない。
だとすると『知的に無価値なこと』を書く事によっても、この匿名者
は何らかの利益をえる。
内田さんの文章は難解だと武田鉄矢さんはおっしゃるけど、この
文章に関する限り、三段論法のように進んで、私にも分かりやすい。
さて、次です。
このことによって、不特定多数の人が(そのこと)によって、利益を
えることそれ自体を喜びとしている博愛的マインドから書くという
可能性。
この人たちは私たちが考えもなく蔑ろにしているもの、侮っている
もの、ぞんざいに扱っているもののうちに、かけがえのないもの、
価値あるものを見いだし、丁寧に磨き上げて私たちに指し示すことを
主務としている。
こういう隠された価値を再認識させる言葉の働きを漢語で『祝』と
呼ぶ。
さてさて、しかしです。
ネット上に行き交っているのは、残念ながら、そのような『祝』の
言葉ではない。それは『祝』とは逆に人々が大切に思っているもの
敬慕しているもの、価値あると信じているものを『貶下』することを
めざしている。
お前達が拝んでいるものは『鰯の頭だぜ!』という『恐るべき真実の
暴露』を優れて『知的に価値ある情報』とみなし、それを不特定多数
の人々に、無償で宣布している自分の努力をみずから多としている。
このような言葉のありようを名付ける漢語は『祝』と同語源の『呪』で
ある。
『不当な利益を占有している』他者がその不当に占有しているもの
『健康、家族、財力、権勢、名誉、才能などなど』を失うことを強く
念じること。
それが『呪』である。
呪は呪詛するもの自身には直接的利益をもたらさない。
けれども、他者が何かを失い、傷つき、穢されることは、彼らの
『間接的利益』に計上される。
『呪』は呪の発信源が知られるとその効力を失う。
そして、内田さん自身がこの後、
『言論の自由とは』という本題に入ります。
やや長い枕になってしまいましたが・・・と言いつつ。